山野之義氏の連載も3回目、いよいよ墓前祭の当日です。
この中に、殉工碑のことが出てきます。台湾の人々は、烏山頭ダム、1万キロ
メートルの給水路、6,000キロメートルに及ぶ排水路など嘉南大[土川]を完成さ
せたことで八田與一を尊敬しているわけですが、台湾の人々の琴線に触れたのは
、この「殉工碑」を建てたことでした。
因みに、以前にも紹介しましたが、八田與一をはじめ海外で活躍した3人の土
木技師の生涯をつづった絵本があります。3人とは、パナマ運河建設に携った青
山士(あおやま あきら)、嘉南大[土川]の八田與一、朝鮮・鴨緑江の水豊ダ
ムを建設した久保田豊(くぼた ゆたか)ですが、全ての漢字に振り仮名がふっ
てある子供の絵本なのですが、子供用とは思えないほど充実した記述となってい
ます。
例えば、八田與一のところでは、注でダム工法の「セミハイドロリックフィル
工法」について説明し、1万6,000キロメートルに及ぶ給排水路をすべて描き、も
ちろん殉工碑のことにも触れていて、大人が読んでも遜色のない内容になってい
ます。
この絵本は、かこさとし作『海外の建設工事に活躍した技術者達』という本で
、今年2月、瑞雲舎から「土木の歴史絵本」第5巻目として刊行されています。
詳しくは瑞雲舎(TEL 03-5449-0653)へお問い合わせ下さい。 (編集部)
八田與一の旅(その3)
金沢市議会議員 山野之義
5月8日、八田與一の命日である。
墓前祭の前に、隣接したホテルで、「追思八田技師音楽会」が開催された。
音楽会とはいうものの、関係者や来賓の紹介、挨拶等々だけで1時間。お客様
や目上の方を大事にするお国柄を感じた。
昼食を挟んで、墓前祭は滞りなく行われた。八田與一の半生をテレビドラマ化
するということもあってか、テレビカメラが、やたらと目に付いた。
その日、ダム近くのホテルに宿泊した私たちは、早めに起床し、1.2キロのダム
堰堤の途中まで歩いた。ダムに貯められた水の中で泳いでいる方がいたのには、
驚いた。聞くと、もちろん、遊泳は禁止であるという。のどかな光景である。
八田ご夫妻のお墓は、満面に水がたたえられたダムを見下ろすことができる小
高い丘の上に作られ、そのすぐ横に、八田與一の銅像が置かれている。
銅像は、現地で働いていた方たちが、八田與一の功績をたたえ、製作を依頼し
寄贈したものである。そして、この銅像は、日本と台湾との関係に翻弄されるか
のように、数奇な運命をたどることになる。
終戦後、中華民国国民政府の蒋介石軍が、台湾に上陸し、台湾を統治すること
になった。
当然、日本人の銅像や碑は全て撤去された。八田與一の銅像も、同じ運命にあ
ったと思われていたが、実は、水利会の方たちが、ずっと隠し守ってきたのであ
る。
時代の流れを見、1975年、水利会は、政府に対し、銅像設置の許可を求めたが
、不許可の通知。その後、1978年、再び、銅像設置の許可申請をしたが、その返
事はずっと来なかった。政府としても、日本と正式に国交がない以上、許可を出
せないまでも、不許可を出す理由までもないとして、黙認せざるを得なかったの
であろう。その3年後の1981年1月1日、八田與一像は、台座をつけて元の場所
に再び設置されることになった。こうして、烏山頭(うざんとう)から持ち去ら
れてから37年ぶりに「八田與一」は、温かい嘉南の人達の心に囲まれて、烏山頭
ダムを見下ろし、現在に至っている。
朝食後、嘉南農田水利会顧問・徐欣忠氏のご案内のもと、長い工事の間に亡く
なられた方たちの霊を慰めるために作られた、「殉工碑」に向う。
徐氏は、「八田技師夫妻を慕い台湾と友好の会」の世話人の方たちからすれば
、まさに旧知の間で、私たちだけでなく、八田與一の話を聞きに来る、台湾、日
本の方たちほとんど全ての、通訳及び説明役をされているという。
余談だが、徐氏の後継者として、私の後輩にあたる、慶応義塾への留学経験を
もつ30代の若い方がおられたが、80歳近い徐氏には、まだまだ及ぶべくもないよ
うだ。
徐氏は、殉工碑の前にきて、これまで以上に力を込めて、説明を始められた。
「八田先生が当時から、そして今でも、私たち台湾人に、心より尊敬されてい
る、その最大の理由が、この殉工碑にあります。二つの点で、その偉大さが際立
っていることがあります」。
声震わせて、話される。
その一つは、碑に刻んである名前は、日本人、台湾人の分け隔てなく、全て、
亡くなられた順番に書いてあるということである。しかも、工事中の事故だけで
なく、病気で亡くなられた方たちの名前も同じである。
とかく、安直に「人権」なるものが吹聴される現代の価値観からすれば、さし
たることではないかも知れない。しかし、当時、台湾は日本に統治されていたと
いう事実を考えた場合、まさに、あり得ないことであったろう。その決断力、実
行力。
もう一つは、工事の従業員だけでなく、その家族の名前までもが刻まれている
ということである。
八田與一は自分の家族を大事にしているのと同じように、従業員たちの家族も
大事にしていた。そもそも、「よい仕事は安心して働ける環境から生まれる」と
いう信念のもとに、職員用宿舎200戸の住宅をはじめ、病院、学校、大浴場を造る
とともに、娯楽の設備、弓道場、テニスコートといった設備まで建設した。
それ以外にも、芝居一座を呼び寄せたり、映画の上映、お祭りなどを行ったり
、従業員だけでなく家族のことも頭に入れてのまちづくりを行っている。工事は
人間が行うのであり、その人間を大切にすることが工事も成功させるという思想
からであった。
家族があっての、現場の従業員であり、工事である。その家族が亡くなられる
ということは、大切な、従業員が亡くなることと同じである。その考え方のもと
、殉工碑には、工事期間中に亡くなられた、従業員家族の名前も刻まれている。
工事期間中、八田與一にとって一番辛かったことは、随道内で発生した爆発事
故であったであろう。
随道工事の最中に、石油ガスが噴出し、そのガスに火花が引火して爆発した。
50名以上死亡するという大惨事となった。
その事故もあり、この殉工碑に刻まれている方のお名前は、134名にもなる。
また、この殉工碑には、八田與一の文章も刻まれている。
漢語調の、やや長めの文章であったが、徐氏は既に、何百回と口にしてきたの
であろう。
「読み上げます」と言い、抑揚をつけながら、また、時には、途中で簡単な解
説をつけ加えながら、既に暗誦しているであろう八田與一の書き上げた文章を読
み、説明してくれた。その韻律に耳を傾けているだけで、徐氏及び台湾の方たち
が、八田與一を心より崇拝しているお気持ちが伝わってくる。
その最後の方に、次の言葉がある。
「諸子の名も亦(また)不朽なるへし」
このダムの水によって、灌漑用水が流れている限り、皆さんの労苦は、忘れら
れることはない。
この一文を読むだけで、八田與一が、従業員の皆さんを思う気持ちが伝わって
くる。また、その関係者も、この一文だけで、心震わされる思いをしたことであ
ろう。
私は、殉工碑の前に立って、その文章を凝視し、言葉の力というものを、一人
感じ入っていた。
(平成17年6月26日)
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