講座」は、明日の日本を背負って立つ国際派日本人を育てようと1999年2月に発行され、今年で17
年目を迎える老舗の人気メールマガジンだ。
今年5月には、このメルマガから選んだ文篇を収録した『世界が称賛する日本人が知らない日
本』(扶桑社)を出版し、9月にはその姉妹編として『世界が称賛する国際派日本人』(扶桑社)
も出版、いずれも好評を博しているという。
最近、「まぐまぐニュース!」において「日本と台湾の『仰げば尊し』な関係を生んだ、教育
家・伊沢修二の半生」が掲載された。実は「Japan On the Globe 国際派日本人養成講座」がこ
の伊沢修二を取り上げたのは14年前の2002年1月27日発行号。なぜ今ごろになって「まぐまぐ
ニュース!」が取り上げたのかは不明だが、読み応えのある文篇だ。
六士先生が芝山巌事件で亡くなってから今年で120年。本会は6月26日、六士先生が祀られている
靖國神社において「六士先生・慰霊顕彰の集い」を開催、ご遺族でもある本会の小田村四郎・名誉
会長にご講演いただいた。
ここに、改めて伊勢雅臣氏の「日本と台湾の『仰げば尊し』な関係を生んだ、教育家・伊沢修二
の半生」を掲載し、六士先生の事績を偲び、日台の絆を深める縁(よすが)としたい。
人物探訪:仰げば尊し〜伊沢修二と台湾教育の創始者たち
新領土・台湾では教育こそ最優先にすべきだ と、我が身を省みずに尽くした先人たち。
【Japan On the Globe(225) 国際派日本人養成講座:平成14年1月27日】
http://melma.com/backnumber_115_1126517/
■1.「国民教育発祥の地」■
1995(平成7)年、台湾・台北市北郊にある「士林国民小 学」の百周年記念式典が開かれた。
陳水扁・台北市長(現・総 統)も来校して祝辞を述べた。学校の展示室には歴代校長の写真が飾
られている。初代は日本人・伊沢修二。100年前の明治28(1895)年、日本による台湾統治の開始
と同時に伊沢修二が創設した芝山巌学堂をこの小学校の始まりとしているのである。
芝山巌学堂の創設された翌年の正月、日本人教員6名が土着の匪賊に惨殺されるという痛ましい
事件が起こった。この犠牲者を祀る「六士先生之墓」は、戦後蒋介石政権によって破壊されていた
のだが、士林国民小学の校友会の手によって立派に再建された。この式典には「六士先生」の遺族
縁者も日本から招かれていた。
その5年後の105周年には、同じく校友会により「国民教育発祥の地」という石碑が校庭に建てら
れた。台湾の人々は、100年も前の日本統治時代の教育者たちの事績をなぜこれほどまでに顕彰す
るのだろうか?
■2.明治教育界の先駆者、伊沢修二■
伊沢修二は明治8(1875)年、25歳の時に師範学校制度調査のために米国留学を命ぜられ、マサ
チューセッツ州ブリッジウォーター師範学校に入学、西洋音楽などを学んだ後、ハーバード大学理
学部に進んだ。明治11年、父の病没により博士課程を1年残して帰国。
文部省に勤める傍ら、明治12年、東京師範学校校長、20年、東京音楽学校初代校長など、明治の
教育界の先駆者的役割を果たした。小学唱歌を編集して、小学校に音楽教育を導入した功績もあ
る。「仰げば尊し」は伊沢の作曲と言われている。
明治28年4月、台湾の初代総督に内定していた樺山資紀(すけのり)に会った際、新領土台湾で
は教育こそ最優先にすべきだと意見具申した所、樺山から自らその任に当たるよう勧められて、台
湾行きを決意した。
日本統治前の台湾は「三年小反五年大反(3年ごとの小規模反乱、5年ごとの大規模反乱)」と言
われるように清国官憲に対する住民の反乱が繰り返されていた。また「瘴癘(しょうれい、風土
病)の地」とも呼ばれ、平定に向かった日本軍5万の 約半数がマラリア、赤痢、コレラなどの病に
冒されほどであった。そのような土地にまず教育を、という伊沢の覚悟は余程のものであったろ
う。
5月18日、台湾総督府の始政式の翌日に、伊沢は学務部長心得として、台北で仕事を開始した。
台湾統治のまさに初日に教育行政を開始し、それも伊沢のような日本教育界の中核的人材が惜しみ
なく投入されている所に、明治政府の台湾統治への意気込みが伝わってくる。
■3.最初の生徒たち■
伊沢は、6月26日、台北・北郊の士林の街にある小高い丘・芝山巌にある廟を借りて、学堂とし
た。地元の有力者を集めて「自分たちがここに来たのは戦争をするためでも、奸細(探偵)をする
ためでもない。日本国の良民とするための教育を行うためだ」と説いた。地元民たちは半信半疑な
がら、10 代後半から20代前半の子弟を6名を出してくれた。生徒の一人、16歳の潘光楷(ばんこう
かい)は、後に次のように書いている。
<最初の教室は芝山巌廟の後棟楼上に設置せられ、余は此所(ここ)に楫取道明(かとりみちあ
き、遭難した6人の教師の一人)と起居を共にしたり。・・・
超えて11月16日、甲組生(第一期募集の6人)は4箇月の講習期間満了となり、樺山総督・水野長
官・台北県知事、その他官紳臨場(高官名士の参加)の栄を得て修業証書授与の式典を挙げらる。
斯(そ)の時海軍々楽隊数十名を以て盛んに勇壮なる軍楽を吹奏せられ、余等は驚喜将(まさ)に
狂せん計(ばか)りなりき。>
学堂では日本人教師と台湾人生徒が同じ部屋で起居・食事をともにし、日本語教育だけでなく、
礼儀作法なども含めた全人教育の場とされていた。生徒全員がすでに漢文の素養があったので、短
期間の速習で日本語の習得を終えた。わずか6人の修了式のために数十名の軍楽隊が門出を祝った
のは、芝山巌での教育を見て感銘を受けた角田海軍局長の配慮であったようだ。
潘光楷は、後に士林街の街長を務め、さらに州議会議員となっている。卒業生は各地区に設けら
れる学校の教師や、公務員として巣立っていった。
■4.我れと彼れと混合融和して■
伊沢は、海外領土での教育事例を調べるために、フランスのインドネシア教育局長に話を聞いた
ことがあった。フランスはインドシナを統治する際に、フランス語でフランス風の教育を実施した
が、住民の抵抗にあって失敗したという。
またあるイギリス人は伊沢に助言して、植民地の住民に教育の必要はない、なまじ教育を施せ
ば、本国に反攻する者を育てることになる、と語った。植民地を経済的に収奪するなら、この愚民
政策がもっとも効果的・効率的なやり方であろう。
伊沢は、台湾においては、フランスのように宗主国の言語・文化を押しつけるのではなく、また
イギリスのような愚民政策でもなく、第三の「混和主義」を採るべきである、と主張した。
これは「我れと彼れと混合融和して不知不識(知らず知らず)の間に同一国に化して往く仕方」
である。台湾は日本が経済的な収奪を行う植民地ではなく、北海道や沖縄、樺太と同じ「新 附の
領土」であり、その人民は民族こそ違え、日本国民同胞として遇するべきという考え方が根底に
あった。
それにはまず日本人と台湾人が相互の言語を学んで、互いを理解していくことから始めなければ
ならない。また孔子廟など、台湾人の尊崇する文化・宗教を尊重する事を方針とした。
興味深いのは伊沢がこの時点ですでに「台湾人」と呼び、「遼東あたりの」清国人とは区別して
いる事である。そして台湾人は人種的・文化的・気風的にも日本人に近く、まだ西洋文明を知らな
いだけで、その能力は日本人と同等である事が混和主義を可能にする前提をなすと考えた。統治開
始後10年を経た明治38年時点で、台湾人の日本語理解者0.38%に対して、台湾在住の日本人の台湾
語理解者は約11%。伊沢の混和主義は着実に実現されていったのである。
■5.六氏先生の遭難■
翌明治29年正月、伊沢が講習員(教員)の募集のために帰国している間、留守を守る楫取道明以
下、6名の日本人教師は台北・総督府での新年の拝賀式に出席すべく、生徒らとともに山を下り
た。前夜から抗日ゲリラの騒ぎが伝えられており、一部の生徒は危険だと止めたのだが、楫取はこ
う答えて聞かなかった。
<この危難の時にあたり、文力では敵に抗することのできないことを知って若しこれを避ければ、
臣子の道を失することになる。我等の命運は天に任せるほかはない。すべてを吾らの職務のために
尽くし、職務と存亡を共にするのみである。>
船着き場に着いたが、前夜来のゲリラ騒ぎで船がなかった。やむなく、楫取等は生徒を解散さ
せ、一度学堂に戻った後、士林の警察署に合流すべく再び山を下りる途中で、百余名のゲリラに遭
遇し、防戦空しく惨殺された。ゲリラ等は日本人の首で賞金が貰えるとの噂を信じて、6人の首級
をあげ、所持品・着 衣を奪い、さらに学堂に上って略奪に及んだ。
■6.故に身に寸鉄を帯びずして、土民の群中にも這入らねば■
難を知った伊沢は悲嘆にくれたが、今日のように簡単に戻れる時代ではない。やむなく日本で講
習員募集の任務を続けた。2月11日の講演で伊沢は六氏遭難について次のように語った。
<さて斯く斃(たお)れた人々の為には実に悲しみに堪えませんが、此から後ち台湾に行って、即
ち新領土に行って 教育をする人は、此の度斃れた人と同じ覚悟を以て貰わねばならぬと信じて居
ります。如何となれば、若(も)しや教育者と云うものが、他の官吏の如きものであるならば、何
の危ない地に踏み込むことがござりませう。城の中に居れば宣(よ)い話である。
然るに教育と云ふものは、人の心の底に這入らねばならぬものですから、決して役所の中で人民
を呼び付ける様にして、教育を仕やうと思つて出来るものではない。故に身に寸鉄を帯びずして、
土民の群中にも這入らねば、教育の仕事と云ふものは出来ませぬ。此の如くして、始めて人の 心
の底に立入る事が出来やうと思います。>
この事件の前から、伊沢は次のような発言をしていた。
<台湾の教化は武力の及ぶ所ではなく、教育者が万斛(ばんこく、甚だ多い)の精神を費やし、数
千の骨を埋めて始めてその実効を奏することができる。>
この言葉に示された教育者の在り方を、台湾では「芝山巌精神」と呼ぶようになった。後に芝山
巌神社が創設され、台湾教育に殉じた日本人と台湾人教育者が祀られた。昭和8年時点では330人が
祀られ、そのうち24人が台湾人教育者であった。
■7.母との今生の別れ■
伊沢が台湾での教員募集の計画を新聞で発表すると、大きな反響があり、800名もの応募があっ
た。しかし芝山巌事件の悲報に朝野は大きな衝撃を受けて、500人もの辞退者が出た。
一次試験は各県の郡役所で行われ、その合格者を東京で伊沢自身が面接して、45名を採用した。
その一人に京都府舞鶴近くで小学校校長をしていた坂根十二郎がいた。坂根は22日午後10時に二次
試験の知らせを電報で受け取ったが、京都駅まで25里を歩き、そこから汽車で上京する。試験日の
25日に着くには翌朝には出発しなければならないので、学校関係者には書き置きをし、郡長を深夜
に訪れて許可を得、それから家に帰って母に許しを乞うた。母は神棚から守り札を出し、これを肌
身につけて「神明の加護によりて息災延命なれ」と言った。70を過ぎた母とは今生の別れになると
思うと、涙が止まらなかった。
親戚一同とも別れの杯を交わして23日未明に出発、夜11時に京都駅に着いて夜行汽車で上京、24
日午前11時に新橋駅に着いた。25日に2次試験があり、その翌日、合格発表があった。伊沢は芝山
巌事件を詳しく説明して、心配な者は取りやめても差し支えない、それでもなお進んで行くことを
希望する者は申し出るようにと言うと、合格者45名全員が台湾行きを希望して、伊沢を感激させ
た。
坂根はすでに小学校長の身で、生活のためなら、わざわざ母親と永久の別れをしてまで危険な任
地に行く必要はなかったはずである。その動機として、学校関係者に残した書き置きには次のよう
に述べている。
<台湾島新附民を教育すべく、之が教員を募集せらるるに会す、せめてはその末席に加り以て奉公
の万一を尽くさん事を期せんとす>
新領土・台湾の地に近代教育を広めて、その「新附の民」を等しく日本国民として迎え入れよう
とすることは、当時の国家的大事業であった。その一端を担おうという「奉公」の精神が坂根らを
動かしていた。
■8.美しい師弟愛■
伊沢に連れられた第1回講習員45名は、4月11日に芝山巌に着いた。2ヶ月半あまり、伊沢の教え
た台湾人生徒らについて台湾語を習い、ほぼ日常会話が出来る程度に上達した。7月1日、卒業式
の後、講習員は台湾各地に設立される14カ所の国語伝習所に発っていった。ここで日本語をまった
く知らない台湾人の子弟を台湾語で教えるのである。
坂根十二郎は台南国語伝習所の教諭となった。10月7日、開所式。甲科生50名は年齢20歳以上
で、通訳、公官吏を養成する目的で毎日25銭を支給した。乙科生60名は7歳以上、今日の公学校教
育と同様だが、毎日10銭を支給することで定員を満たした。当時1銭で大きな餅が3個も買えたとい
う。
一方、教員・職員たちは8畳間に5人で生活するという節約ぶりであった。限られた予算を生徒の
手当てに回してまで教育を広めようとしたのである。
このような各地の国語伝習所が公学校に発展していった。今日の台湾の伝統校の初代校長は、坂
根のような講習員が多いという。伊沢や坂根らの熱誠あふれる教育者精神は、師に対する礼に厚い
台湾人の伝統と相俟って、各地で美しい師弟愛を咲かせた。
ある台湾人生徒は、公学校で教わった日本の恩師の事が忘れられず、戦後、日本への渡航が許さ
れるや訪ねていった。しかし手がかりは恩師の出身だと聞いた鹿児島のある町の名だけである。そ
の生徒は竿の先に恩師の名前を大書して、その町の駅で誰彼なしに「この先生を知らないか」と聞
いてまわった。
たまたま地方新聞の記者が通りかかって、その心根に感動し、恩師を探し出してくれたという。
台湾の老人たちが日本統治時代を懐かしく思うのは、このような師弟愛が随所に咲いていたから
である。そしてそれが語り継がれて若い世代でも親日感情を抱いている人が多い。台湾のような豊
かで自由な隣国が親日感情を持ってくれている事の意義は計り知れない。伊沢や坂根のような我が
先人たちの恩は、まことに「仰げば尊し」と言うべきである。
(文責:伊勢雅臣)
■リンク■
a. JOG(108) 台湾につくした日本人列伝
http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h11_2/jog108.html
b. JOG(145) 台湾の「育ての親」、後藤新平
http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h12/jog145.html
c. JOG(189) 蔡焜燦〜元日本人の歩んだ道
http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h13/jog189.html
■参考■(お勧め度、★★★★:必読〜★:専門家向け)
1. 篠原正巳、「芝山巌事件の真相」★★、和鳴会、H13
2. 名越二荒之助他、「台湾と日本・交流秘話」★★★、展転社、H8