(1929年生れ、友愛会員)
*漢数字を算用数字に改めています(メルマガ編集部)
私は1952年頃、屏東女子中学に勤めていた頃高雄市に住んでおりました。わが家の経済状況はかなり悪く、50代の父親は屏東市のある醤油メーカーの醤油を仕入れ、高雄市で販売して生計を立てていました。醤油はビール瓶と同じ600CC入りのガラス瓶に詰められ、1ダースをワラ縄でくくります。それを50ダースぐらい荷馬車で3、4日に1台、屏東から高雄まで運送されます。
私は高雄から汽車で毎日屏東まで通勤していました。ある日、市内を貨物用三輪車が貨物を積んで走行しているのを目にし、これを購入して醤油を高雄まで運送して運賃を稼げないか、と思い付いたのです。
当時、三輪車1台3千元もの値段で、私の月給は150元程度、三輪車を購入する余裕などありませんので、その購入資金を醤油会社の社長に融通してもらい、三輪車を注文し、2週間で黒塗りの三輪車を手に入れました。
いよいよ運送屋開業です。最初は15ダース程度の醤油を積みました。醤油1ダースの重さは13キロ、15ダースで196キロ程度です。勤め先の学校から屏東駅前の工場へ行き、半ズボン、Tシャツに着替え、下駄を履き、三輪車を漕ぎました。市内を出たところで長い陸橋を越えねばならないが、一人では登れないので、その都度学校の用務員に協力を頼み、私が漕ぐ車を陸橋の上まで押してもらうのです。下りは楽です。
やがて下淡水渓の東洋一長い鉄橋と並行している橋に差し掛かり、上り坂になります。物凄くカがかかります。
間もなく大寮郷の後庄村に入る急な坂道になる地点に差し掛かりました。この坂道は全く相想定外、危険知らずで、サドルからお尻を離し、ペダルに立った形で漕いだが、途中で登れなくなり、慌てて車から降りて、全力で車を押し進めたが、ややもすると車が逆行しかねません。それに引きずられたら、醤油を積んだ車が引っくり返る事故になると大変なので、死力を尽くして坂の上まで車を押して、文字通りの難関を乗り越えました。
今後、どうするか、答は簡単です。この坂道は短いので、坂道に入る前方からスピードを上げ、その加速度を利用しながらペダルを懸命に絶え間なく漕ぐことで難関を超えました。この後、より重い荷物でも難なく超えられました。
屏東から高雄市内の我が家までざっと27キロの道のりを4時間近くかけて着くともうヘトヘトです。父が積み荷を降ろす間、私は風呂で汗を流し、遅い夕食を摂り終えると倒れるようにベッドに転がり込んだ時は午後10時過ぎでした。
翌朝は4時半起床、朝食をかき込み、空き瓶を20ダース積んだ三輪車を漕いで、屏東へ向かいます。積み荷重量は118キロ、昨日の重さに比べれば空き車同然なので、スピードが上がり、2時間足らずの7時頃屏東に着くと、出勤服装に着替え、自転車で学校へ出勤します。その夜は学校の当値を務め、5元程度の当直費を稼ぐのです。そして翌日退勤後、又一昨日の運送作業に就きます。
慣れと云う事は凄いもので、徐々に貨物を増やし、半年後には最高30ダース、即ち393キロもの積み荷をこなし、平均24ダース314キロぐらいを1日おきに運送しておりました。
1回24ダースで運賃が24元、ひと月12回くらい運送し、月に288元程度の収入で、月給の倍近く稼げたから副業にしては悪くありません。
その頃、成功大学に就学していた次弟が、私の働く様子を見て、醤油工場の三輪車を借りて夏休みの間、運送に協力してくれました。弟はその後、建築技師の資格をとり、アメリカに留学、建設会社に勤め、数年前リタイア、今年77歳です。
この仕事は身体を壊すと周囲に言われ、1年余りで廃業しました。
考えて見ると運送している時、特に坂を登る時が地獄、下り坂は天国、わが家に着いた時は極楽、地獄と天国の繰り返しで、人間がやる仕事ではないようです。
あのバカげた仕事を買ったのが今から57年前の25歳、若気の至りとは云え、我乍ら呆れています。
(2010年11月20日の月例会で発表)
【『友愛』第12号(2011年12月31日発刊)掲載】
※この記事はメルマガ「日台共栄」のバックナンバーです。