通貨の変遷から見る中国と台湾  浅野 和生(平成国際大学副学長)

*目から鱗の指摘です。(メルマガ編集部)

【世界日報「View point」:2023年10月12日】https://vpoint.jp/opnion/viewpoint/225621.html

 今日、旅行で台湾に行く日本人は、「中国旅行」ではなく「台湾旅行」をする。そして台湾では、人民元ではなく新台湾元(ニュー台湾ドル)で買い物をするのである。ところで、近代以後の台湾で流通してきた紙幣は何であったか。

◆金利差あり統合されず

 1895年4月17日、日清戦争の下関講和条約によって、日本が統治を始めようとしたころの台湾では100以上、一説には200もの通貨が用いられていたという。そもそも清朝全体に、統一的な通貨を用いる制度がなかった。しかし、これでは新領土台湾の統治が困難なため、日本政府は台湾銀行を設立して、99年から台湾銀行券を発券した。明治30年代には、ほぼ台湾の通貨は統一された。

 そのころの台湾では土匪(どひ)が跳梁(ちょうりょう)し、伝染病が蔓延(まんえん)し、アヘン吸引も各地に見られるなど社会・経済が不安定で、その分だけ銀行金利は高く、日本の内地の3・5倍ほどだった。これでは、台湾で日本銀行券をそのまま流通させるわけにいかない。

 この金利差がほぼ解消されたのは昭和12年頃だったようだ。つまり、その頃であれば、あるいは台湾も日本銀行券に統合できたのかもしれない。しかし、この年に日中戦争が勃発して日本全体が非常時態勢に入り、通貨統合の機運はなく、そのまま終戦の日を迎えることになった。

 通常、戦勝国が他国の領土だった地域の支配をスタートさせるとき、最初に手を付けるのが、旧通貨の廃止と新通貨の流通である。通貨は国家主権のシンボルだから、前の支配者のシンボルを残すわけにはいかない。軍政下では軍票が用いられることも多い。

 ところが台湾では、台湾銀行券がただちに廃止されることはなかった。蒋介石の中華民国は、終戦前の1944年から戦勝後の台湾接収の準備を始めており、通貨については大陸の「法幣」を流通させようと計画していた。

 しかし、実際に台湾統治を始めると、インフレ昂進(こうしん)で急膨張する通貨量に見合う新通貨の用意が困難だったことに加え、経済不安定で台湾銀行券と法幣の兌換(だかん)比率を決定できず、中華民国の台湾行政長官公署は従来の紙幣をそのまま使う決断をし、中央政府もこれを認めた。これには、従来から台湾で通用したのが台湾銀行券で、日本銀行券ではなかったことが幸いしたと思われる。もし日本銀行券だったら、そのまま使うわけにはいかなかったろう。

 翌年5月、従来の台湾銀行を中華民国の台湾銀行に改組して、5月22日から新たな台湾銀行券を発行した。実は、従来は「臺灣(たいわん)銀行券」だったが新たに発券したのは「台湾銀行券」(後にデノミをしたので「旧台幣」と呼ばれる)で、交換比率は1対1であった。最初の旧台幣は1円、5円、10円だが、インフレのために48年12月までに100円、500円、1000円、ついには1万円札まで発行された。その後、インフレ収束の見通しがたった49年6月、4万対1でデノミを行い、新しい台湾銀行券、いわゆる「新台幣」が発行された。

 さて、デノミ後の49年12月7日から、国共内戦に敗れた蒋介石の国民政府は、軍もろとも大陸から台湾に移転した。つまり、国民政府が大陸の「法幣」の流通圏から「新台幣」の流通圏に移転したため、「新台幣」が中華民国の通貨になった。それ以後では、2000年に台湾銀行に代えて中央銀行が発券業務を担当することとなったが、紙面デザインを変えただけで「新台幣」が通貨として継続使用されている。

◆大陸は「人民元」に統一

 他方、中国共産党が支配権を握った大陸中国では、国民政府の「法幣」に代えて「人民元」を通貨とし、大陸全土の通貨統一を実現した。

 以上をまとめると、清朝時代の台湾には近代的な通貨、金融制度がなかったため、日本は台湾の統治にあたり1899年から近代的な通貨制度を導入し、「臺灣銀行券」を発券した。戦後は中華民国の「台湾銀行券」となり、デノミ以後は今日まで「新台幣」が用いられており、この間、中国と台湾の通貨が統一されることはなかった。つまり台湾では近代的な通貨、金融制度の導入から今日まで一貫して通貨が中国とは別であって、「一つの中国」通貨圏が存在したことはない。通貨圏の「台湾独立」はすでに125年になる。

(あさの・かずお)

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