いて、小川智男氏(潮音寺主管)らが発起人となり、「戦後70周年記念 2015年バシー海峡戦没者
慰霊祭実行委員会」が主催し、日台の関係者など約160人が集って慰霊祭が行われた。
賛同者には、李登輝元総統はじめ門田隆将(ノンフィクション作家)、西村直記(作曲家・シン
セサイザー奏者)、河添恵子(ノンフィクション作家)、片倉佳史(在台ジャーナリスト)、櫻井
よしこ(ジャーナリスト)、金美齢(評論家)、蔡焜燦(台湾歌壇代表)、渡辺利夫(拓殖大学総
長)、小田村四郎(日本李登輝友の会会長)など32人が名を連ねている。
また特別後援には公益財団法人交流協会、台湾日本人会、台北市日本工商会、さらに日台スポー
ツ・文化推進協会、友愛グループ、台湾歌壇、戦艦大和会、呉海軍墓地顕彰保存会、呉水交会、本
会など33団体が協力団体として名を連ねている。
産経新聞が詳しく報じているので下記に紹介したい。またNHKニュースでも映像とともに下記
のように報じている。
<式典では、日本の台湾との窓口機関「交流協会」の沼田幹夫代表が「多くの尊い命が失われたと
いう事実を思い起こし、改めてみ霊への深い思いとともに、平和を祈念する熱い思いがこみ上げて
きます」と弔辞を述べました。
そして、読経のなか、参列者一人一人が焼香して手を合わせ、戦没者の霊を慰めました。
この海域で父親を亡くした萱野喜代子さんは「お骨もなく、海に沈んだままの70年でした。父
もこの沖合で見てくれたのかなと思います」と話していました。
式典を開いた実行委員会では、今後も定期的に追悼行事を続けていきたいとしています。>
なお、本会からは越野充博・常務理事や佐々木孝・理事なども参加している。
◆NHKニュース:台湾沖の戦没者を追悼 戦後70年で式典[8月2日] http://www3.nhk.or.jp/news/html/20150802/k10010175951000.html
バシー海峡慰霊祭、日本兵の遺体を手篤く葬ってくれたのは台湾の人だった…「慟哭の海峡」で鎮魂の集い
【産経新聞:2015年8月2日】
南の海に「海ゆかば」の大合唱がこだました。
2日、約160人が参加してバシー海峡を望む台湾南端の潮音寺(ちょうおんじ)で行われた戦後70
年の慰霊祭。海中に眠る父祖の霊に向けて遺影を掲げる遺族、「父と同じ場所に…」と亡き母の遺
骨を持参した女性もいた。
ギラギラと照りつける熱帯の日差しとコバルトブルーの美しい海。70年以上前、フィリピン・ル
ソン島へと続くこの海が、おびただしい数の若い日本人の命をのみ込んでいったことを現代人は知
らない。
戦争末期、戦局が悪化した日本軍は起死回生の決戦に臨むべく、残った兵力をフィリピンへ向け
て送り込む。しかし、制海権、制空権を米軍に奪われ、兵員や物資を満載した日本の艦船は、こと
ごとく米潜水艦の餌食となってしまう。
慰霊祭で導師を務めた佐賀・禅林寺住職、吉田宗利(むねとし)(73)は昭和19年12月にバシー
海峡で撃沈された駆逐艦「呉竹(くれたけ)」艦長、吉田宗雄の長男。「私は父が最後に行くと
き、『僕も一緒についてゆく』と聞かなかったらしい。今日は、父のためだけでなく、この地に
散った幾万の英霊のために務めさせてもらった」
無念の思いを胸に刻みながら海中に消えた命は少なくとも10万人以上とされる。近くの海岸には
連日、多くの日本人の遺体が打ち上げられたという。そのとき、日本兵らの遺体を収容し、手厚く
葬ってくれたのが台湾の地元住民だった。
潮音寺は、昭和56(1981)年8月19日、バシー海峡で九死に一生を得た元独立歩兵第13連隊通信
兵、中嶋秀次(ひでじ)(平成25年、92歳で死去)の強い思いによって建立された。
昭和19年8月、中嶋が乗船していた「玉津丸」と約30隻の船団はこの海域で米潜水艦の急襲に
遭う。沈没までわずか5、6分。玉津丸に乗っていた仲間のほとんどがこのとき戦死した。
中嶋の「地獄」はそこから始まる。何とか非常用のイカダにしがみついたが、非常用の水、食糧
はわずかしかない。仲間が1人、2人と息絶えてゆく。「正気じゃなくなるんです。『水をくれ』と
狂ったようにわめいていたかと思うと突然、静かになる。見に行くともう、死んでいた」
漂流12日目の夕方、奇跡が起きた。すでに意識がもうろうとした中嶋は、水平線の向こうに友軍
の船を見つける。玉津丸の約5千人のうち、助かったのは中嶋を含め、たった8人だけだった…。
戦後、戦友の遺族を訪ねた中嶋は「せめて、わが子が逝った場所を見せたい」とバシー海峡が見
える地に母親たちを連れて行った。海に向けて花を手向け、慟哭(どうこく)する遺族の姿を見て
中嶋はこの地に慰霊施設の建立を決意する。簡単な仕事ではない。異境の地であり、すでに日本と
の国交は失われている。日本で旅行会社を経営し台湾を行き来する中嶋にとって、何よりも助けに
なったのは台湾の民間の人々の協力であった。
台北市でホテルの支配人をしていた洪銀河(故人)は戦争末期に海軍に徴兵され、仲間の慰霊を
したいという中嶋の熱意に深く共鳴したという。地権者との交渉は洪が代行。日本にいる中嶋に代
わり、建設作業の監督も引き受けた。
洪と2人で台北から何度も現場に通った妻の李秀燕(64)は「なぜこんな面倒なことを引き受け
たのかと夫に怒ったけれど、参拝者の涙を見て考えが変わった。戦争で命を落とし、故郷に帰れな
かった日本人のために、できることをしようと思った」。
数千坪の敷地購入と建物(本堂)の建築費用は邦貨にして、ざっと4、5千万円。中嶋は私財をな
げうち、遺族からの寄付(約2千万円)もそれに充てることにした。
潮音寺が所有権をめぐるトラブルに巻き込まれたとき、高雄の観光バス会社副社長、鍾佐栄
(64)は中嶋の代理人となり、弁護士費用から和解金まですべてを負担した。南海に眠る戦没者を
見守ってきた潮音寺は、いつしか「日本と台湾を結びつける“ちょうつがい”になった」(小川智
男・潮音寺主管)。
今、潮音寺を守ってきた日台の関係者が心配するのは、常駐の管理者がいないため、老朽化した
建物がさらに傷んでいくことだ。遺族らが参拝に訪れても十分な宿泊施設もない。慰霊祭実行委員
長の渡辺崇之(たかゆき)(42)は「今後、潮音寺を存続させてゆくために委員会を立ち上げ
た。ぜひ皆さんの協力をお願いしたい」と呼びかけていた。
=敬称略(台湾・恒春 喜多由浩、田中靖人)