*読みやすさを考慮し、小見出しは本誌編集部で付したことをお断りします。
◆基本的人権を無視した「逃亡犯条例」に反対の大規模デモ
日本のメディアでも大きく報道されていたので、ご存知の方も多いでしょう。香港で大規模なデモがありました。「逃亡犯条例」に反対するためです。
これは、中国本土での事件に関与した疑いがある容疑者を香港当局から中国当局に引き渡す制度であり、この条例が成立してしまうと、冤罪(えんざい)で拘束された民主運動家などが中国大陸に移送され、不当な扱いを受ける恐れがあるのです。香港人たちは、人権も法律も無視した一方的な強制力を行使され、常に中国共産党の強権を恐れなければならなくなるのです。
いかに香港が「一国二制度」の名の元に中国化を強いられているとはいえ、基本的人権を無視するような条例の成立を黙った受け入れることはできないということです。
報道にもあるように、デモには103万人以上が参加したとのことです。これは雨傘革命以来の大規模なデモであり、香港政府施設周辺では警察とデモ隊が衝突しケガ人も出ました。警察は催涙スプレーなどでデモ隊に対抗したとのことです。
このデモに参加し、デモの翌日には日本で記者会見を開いて香港の窮状を訴えた周庭さんは、「香港はあきらめない」と誓うと同時に、日本人にも他人事ではないと警鐘を鳴らしました。
周庭さんは、17歳で雨傘革命に参加して以来、香港の「民主の女神」などと呼ばれる人物で、日本でも何度も講演活動を行っています。周庭さんは、条例が成立することで香港に公平な裁判や法律がなくなれば、国際金融都市としての魅力はなくなると訴えて、国際社会の関心や協力を呼びかけました。政治活動にも積極的に参加していますが、議員に立候補することさえ許されなかったようです。
しかし、はっきり言って香港はもうすでに中国の一部です。一国二制度というのは口実で、中国共産党に呑み込まれるのは時間の問題でした。今後、「逃亡犯条例」が成立してしまった後は、デモをするだけで逮捕され中国に移送されて、非人道的な扱いを受けることになるのです。
◆「逃亡犯条例」が証明した「一国二制度」というまやかし
この騒動は、2020年の総統選挙を控えた台湾にとってはいいクスリです。中国の「一国二制度」という言葉がいかにまやかしかを証明してくれました。
以前もこのメルマガで書きましたが、世界全体がバランスを失ったコマのように迷走しているように思えてしかたないのです。
ロシアでは、政府に批判的な新聞記者が麻薬販売容疑で拘束されました。モスクワ市・州の大規模汚職について追及していたところだったそうで、口封じのために拘束されたのではないかと報じられています。また、ロシアの有力新聞3紙が共同で「事実無根だ」とする共同声明を発表しました。メディア規制が厳しいロシアでこのような動きは珍しく、大規模な市民デモも計画されているとのことです。
米中貿易経済戦争もまだまだ収束の様子はありません。トランプ大統領は、中国が首脳会談に応じなければ報復関税を発動するとも発言しています。その影響かどうなのかわかりませんが、香港のデモに対して中国政府は、デモの背後に外国勢力の存在があるという認識を示し、「断固反対する」と言っています。
2018年にサウジアラビアの記者が殺害された事件がありました。この時も、各国が自国の利益を守るため、それぞれが殺人事件を利用しようとしました。サウジアラビアは石油大国ですから、アメリカやトルコだけでなく日本も一枚かんでいます。殺人事件の真相など、この際どうでもいいのです。結果は、政治的判断でどうするかが決まるのです。
オーストリアのデモでは、警察官がデモ隊の一人を何度も殴る動画が報道されました。
権力、民主、自由、正義。今、世界ではその定義や枠組みが混とんとしており、日本を含め世界各国は向かうべき方向を失っているように思えます。
◆中国に返還されて「アジアの真珠」の輝きを失った香港
香港の運命は、アヘン戦争(イギリスは貿易戦争と呼んでいます)後、南京条約の締結をめぐって、イギリスははじめ長江出口にある舟山群島を要求しましたが、長江の出入口を押えられるのを嫌った清国はそれを断り、代わりに人口5000人の離島である漁村をイギリスに渡したことから始まりました。
そもそも支那人はアヘン嗜好が強く、国外からアヘンを手に入れることができなくなると国内栽培を始め、戦後は戦前の約100になったともいわれています。
上海マフィアの杜月笙が経営するアヘン売買会社「三●公司」は、アヘンの売買で巨額の富を得ました。その年収は、中華民国政府GDPの6分の1にものぼると言われています。そして、雲南や満州は世界最大のアヘン栽培地として有名になり、中華人民共和国の時代になると、4人に1人がアヘン経験者となったとの統計もあります。(●=金の下に金金)
一方で香港は、イギリスの植民地になってから中国人の駆け込み寺となり、1994年の中国返還に至るまでに、香港の人口は700万人以上にふくれあがると同時に、中国の金融センターにもなりました。隣接の深圳(シンセン)も開放都市のシンボルとして人口は急増し、1000万人近くになりました。あまりに人口が増えたため、上海と広東、広州と香港の人口を合わせると4500万人のメトロポリスができるとの計画までありましたが、中華人民共和国が文革を経験している間に香港は法治と自由の地として中国人の逃げ場となっていたのです。
香港は一時、中国からカネ、ヒト、モノの逃亡先として利用されていましたが、中国に返還されてからはアジアの真珠としての輝きを失いました。中国の掲げる「一国二制度」は、50年間は不変だという約束がありましたが、中国は一党独裁の国ですから、約束はあってないようなものです。
イギリスは約束を守っていましたが、もはやイギリスも香港とは無関係となりました。中国からすれば、「昔は昔。今は今」ですから、香港は自分のもので好き勝手にできる場所なのです。
さらに中国は、経済が豊になるにつれて国民をデジタル管理しはじめました。その上、盗み、裏切り、約束反故というメンタルは中国の文化風土であり不変のままです。南シナ海や尖閣諸島などの問題も、そうした歴史的歩みの上に中国の主張が成り立っていることを知ることで、対処法を練ることができるでしょう。