■日台の絆、歌で結ぶ
台湾の「日本語世代」を代表する存在で、今年7月に亡くなった蔡焜燦(さい・こんさん)氏を偲(しの)ぶ会が9月、台湾で営まれた。その場で蔡氏を送ったのは、山口県下関市在住の音楽家、加藤さとる氏(89)が演奏した「島原の子守歌」だった。蔡氏は生前、加藤氏に「自分が死んだら島原の子守歌で送り出してほしい」と頼んでいた。 (山口支局 大森貴弘)
2人の出会いは、1首の短歌がきっかけだった。
さきの大戦末期、志願して日本に渡った「台湾少年工」がいた。旧海軍の軍属として数学や英語などの教育を受けながら、戦闘機の製造に携わった。終戦後、日本国籍を失い台湾へ送り返された。
彼らは日本で学んだ短歌に、日本を懐かしむ気持ちをのせた。
作家の阿川弘之氏は文芸春秋(平成15年8月号)の随筆「心の祖国」で、一人の元少年工の短歌を紹介した。
北に対(む)き年の始めの祈りなり 心の祖国に栄えあれかし
加藤氏は、この短歌を目にし、心を震わせた。
「彼らを見捨てた日本を『心の祖国』と思ってくれる老人がたくさんいる。日本への深い思いに感動し、どうしても感謝の気持ちを伝えたくなった」
加藤氏はクラリネット奏者として、歌手の淡谷のり子氏や村田英雄氏らの伴奏を務めた。サントリーやメガネの愛眼など、企業コマーシャルの曲も手がけた音楽家だ。この短歌に曲をつけ、「第二の祖国へ」と名付けた。
15年10月、神奈川県で開かれた「少年工来日60周年記念大会」に、短歌を詠んだ元少年工と蔡氏が参加していた。元少年工と蔡氏は、台湾で「結拝」と呼ぶ義兄弟の間柄だった。
蔡氏は戦時中、岐阜陸軍航空整備学校奈良教育隊に入隊し、日本で終戦を迎えた。戦後、台湾を強権支配した国民党の重圧をはねのけ、実業界で成功した。
苦難を乗り越えた人生の根底には、戦前の日本統治時代に受けた教育で培った「日本精神」があった。
蔡氏は「愛日家」を標榜(ひょうぼう)し続けた。
記念大会では、加藤氏が「第二の祖国へ」を演奏した。聞き終えた蔡氏が、加藤氏に話しかけた。
「蔡さんは感動した、と言ってくれた。そして、何度もお礼を言われました」
■ □ ■ □
翌16年、歌を詠んだ元少年工が亡くなり、蔡氏は音楽葬を依頼した。
加藤氏はバンドマンを連れて台湾に行き、元少年工が好きだったという「海ゆかば」などを演奏した。
それ以降、加藤氏は毎年のように台湾を訪れ、親交を深めた。
だが年月がたち、互いに年を重ねた。体調を崩すこともたびたびあり、頻繁に会うのは難しくなった。そんなとき、蔡氏がこう漏らしたという。
「私が死んだら、『島原の子守歌』で送ってほしい。加藤さん、あなたに演奏してほしいんです」
加藤氏は「蔡さんは日本の唱歌や子守歌など、背景も踏まえて、歌詞や旋律を完璧に覚えていた。島原の子守歌は、作詞作曲した宮崎康平さんとの交流もあり、特に好きだったようです」と振り返った。
加藤氏は「どちらが先にいくかは分からないが、自分が生きていれば絶対に約束を果たす」と誓った。
■ □ ■ □
今年7月、蔡氏は台北市内の自宅で亡くなった。90歳だった。
加藤氏は訃報にふれたが、自身の体調が悪く、台湾には行けそうになかった。
生演奏は無理でも、何とか約束は果たしたい−。CDに収録して送ろうと思い立ち、すぐにレコーディングを始めた。
加藤氏がピアノを弾き、妻で歌手の浜崎むつみ氏(76)の歌をのせた。
9月23日、台湾・新北市で営まれた偲ぶ会には、日台の関係者120人が駆けつけた。加藤氏の演奏する「島原の子守歌」が、その場に流れた。
「最善の形とはいえないかもしれません。でも、生前の蔡さんの思いに応えることができてよかった。日本と台湾の絆を守ったというとおこがましいかもしれませんが、本当にほっとしています」