廣枝音右衛門:命を懸けて台湾の若者を救った日本人警察官  林 翠儀(「自由時報」東京特派員)

廣枝音右衛門:命を懸けて台湾の若者を救った日本人警察官  林 翠儀(「自由時報」東京特派員)

【nippon.com:2021年3月27日】https://www.nippon.com/ja/japan-topics/g01029/

◆墓参のため取手の寺を訪れる台湾人

 茨城県取手市の閑静な住宅街に、600年以上前に創建された浄土宗の古刹(こさつ)「弘経(ぐぎょう)寺」がある。観光地というわけでもないのに、何年も前から時折台湾人が墓参のためにこの寺を訪れるようになった。

 本堂の脇の墓地の通路を進むと一番奥に「廣枝家之墓」と書かれた墓石と「ああ壯烈 義人 廣枝音右衛門」と題し、顕彰の事由が刻まれた大きな「遺徳顕彰碑」が建っている。石碑は、1977年「元台湾新竹州警友会」が建てたもので、陽の光を浴びると鏡のように光を反射し、他の墓碑とは全く異なる存在感を放つ。

 かつて、ある日本の警察官が、数百の台湾青年の命と引き換えに、自らの命を捧げた。70年以上の間、この物語を知るのはごくわずかな台湾人と日本人だけだった。

◆25歳で新天地・台湾へ渡る

 廣枝音右衛門(ひろえだ おとえもん)(*編集部註)は、日本が台湾を統治していた時代に台湾総督府の警察官になり、1945年2月、フィリピン・マニラで、40歳の若さで亡くなった。終戦後、廣枝の未亡人は、子供たちを連れて実家のある茨城に戻り、弘経寺の境内に廣枝家の墓を建てた。しかし夫の死因や、夫が率いた台湾人の部下たちが、上官である廣枝を慕い、台湾の新竹と苗栗の県境にある獅頭山の寺院で供養を続けていることを知ったのは、終戦から30年以上経ってからの事だった。*編集部註:廣枝音右衛門の読みは「ひろえだ・おとうえもん」。

 廣枝は1905年、現在の神奈川県小田原市に生まれた。日本大学予科を卒業後、23歳で陸軍の幹部候補生として佐倉歩兵連隊に入隊した。退役後は神奈川に戻り、湯河原町の小学校教員となったが、25歳の時に台湾総督府の警察官募集に応募し、海を渡った。

 当時、台湾総督府の警察官は人気の高い職業だったが、廣枝は見事難関を突破、12年後には警部に昇進して、新竹州竹南郡警察署の行政主任となった。

 1943年、太平洋戦争の戦線は拡大し、フィリピンの日本軍占領地では治安を維持するために多くの警察官が必要となった。 日本海軍は台湾で有志を募って巡査隊を編成した。同年12月、当時38歳だった廣枝は500人の台湾の若者を含む海軍巡査隊2000人の総指揮官として、フィリピンに赴いた。

 海軍巡査隊の当初の任務は、物資の運搬、補給と捕虜の管理であった。しかし、1944年の秋になると、米軍は大量の兵力と武器を投入してフィリピン奪還作戦を展開、戦況の逼迫(ひっぱく)に伴い、海軍巡査隊はマニラ海軍防衛隊に統合された。

 1945年1月9日、ルソン島に大挙上陸した米軍は、マニラに向けて徐々に南下、劣勢の日本軍は撤退を続けた。2月上旬、米軍はマニラに入り、市街戦を展開、街は火の海となり、砲弾が雨のごとく降り注いだ。

 2月中旬、日本軍はマニラ市南部のイントラムロス地区に追い詰められていった。

◆台湾人のため、自らを犠牲に

 大隊長であった廣枝は、隊の退却を指揮したが、イントラムロス地区に到着すると、銃はすべて海軍防衛隊に回収され、引き換えに「棒地雷」と「円錐弾」が渡された。米軍に反撃するため、海軍防衛隊が人間爆弾と化した特攻隊による「玉砕戦」を仕掛けようとしていることは明らかだった。

 「棒地雷」は1メートルほどの竹やりに地雷を結び付けたもの、「円錐弾」は2メートルほどの木の棒に結びつけられた直径約20センチの円錐形の爆弾であった。兵士は棒地雷や円錐弾を持つよう命じられ、また将校は軍刀を手にして、夜の闇に乗じて米軍の戦車を襲撃したが、当然、そんな肉弾攻撃で生還する者などいなかった。

 廣枝は上官から玉砕命令を受けたが、部下に「一緒に死ね」と命じることはなかった。

 2月17日、米軍はイントラムロス要塞周辺に激しい砲撃を加えた後、日本語で降伏を呼び掛けた。要塞陥落前日の2月23日正午、廣枝は巡査隊の台湾人幹部数名に最後の言葉を残し、そのうちの一人に自分の軍刀を渡した後、単身防空壕に入り、拳銃で自害した。

 廣枝の最後の言葉は、「お前達は台湾から来た者だ。家には妻子父母兄弟が待っているだろう。連れて帰れないのが残念だが、お前達だけでも、なにがあっても生き抜かなければならない。俺は日本人だから責任はこの隊長が持つ」というものだった。廣枝は、自らの命と引き換えに、「降伏して命を守る方法もある。何があっても生き残らなければならない」と暗に示していたのだ。

 廣枝が自害した数時間後、絶望と悲しみに包まれた隊員たちの耳に、城壁の外から台湾語で降伏を促す声が聞こえてきた。彼らはそれに従い、「俺は台湾人だ」と叫びながら、米軍に降伏の手を挙げた。8日後の1945年3月3日、3年間にわたる日本のフィリピン占領は正式に終わりを告げた。

 1946年、約1年間の捕虜生活を終えた台湾人兵士たちは、敗戦国日本が撤退した台湾に続々と帰って行った。1949年には蒋介石政権が台湾に撤退し、新たな台湾の支配者となった。日本人として戦った台湾の兵士は、「敵側」だった新政府を迎えるために、短期間で自らのアイデンティティーを切り替えなければならなかった。

◆元部下の劉維添が70年の余生を恩返しに費やす

 廣枝音右衛門は命と引き換えに多くの台湾青年の命を救った。これは戦乱の中、人間性の輝きを示す美談ではあるが、新たな支配者たちの「政治的正しさ」にはそぐわず、戦地から生還した者たちも、「白色テロ」による死の危険を避けるため、あえて声を上げることはなかった。

 苗栗・南庄に住む劉維添は生還者の一人であった。21歳で志願して海軍巡査隊に参加し、フィリピン占領地に派遣された。廣枝とは1年余りの付き合いだったが、1946年に台湾に戻ってからも恩義を忘れず、70年近くにわたるその余生で廣枝への恩返しを貫いた。劉は2013年9月に91歳で他界したが、彼の遺志は今も受け継がれている。

 劉は巡査隊の小隊長として、廣枝の誠実さと優しさを間近で体験することができた。劉たち台湾の若者は、廣枝を「ヒロエ隊長」と呼んでいた。マニラで捕虜の管理を担当していた巡査隊は、飛行場建設のために約600人の捕虜をマニラ近郊の都市ラスピニャスに送った。ある時、朝鮮人通訳の一人が捕虜に暴力を振るった。廣枝は憤慨し、部下に「捕虜も同じ人間だ」と警告し、彼らを大切に扱うよう求めた。

 1945年2月12日、米軍がマニラに砲撃を開始し、劉と4人の隊員は迫撃砲の攻撃を受け、負傷した。比較的軽傷だった劉は、敵の攻撃をかいくぐって100メートル離れた廣枝に状況を報告。廣枝はすぐに重傷の隊員4人のもとに駆けつけ、銃弾の雨の中、彼らの名前を叫んで絶えず励まし続けながら、5キロ離れた病院まで送り届けた。

 日本軍がイントラムロス地区で最後の死闘を繰り広げた際、毎晩、30から40人の小隊が棒地雷や円錐弾を手に米軍の戦車へ突撃するよう命じられ、昼間もまた10数人の分隊が突撃したが、誰も生きて帰ってこなかった。イントラムロス地区周辺の公園には玉砕した兵士の死骸が山をなした。しかし廣枝は、「今ここで軍の命令通りに玉砕することは、まったく犬死に等しい」として、突撃命令を下さなかった。

 故郷に戻った劉維添は、生き残った同郷の戦友たちと共に内輪で廣枝を弔った。かつて台湾の人々に愛された警察官であっても、戒厳令下の空気の中では、旧宗主国の軍人を表立ってしのぶことはできなかったのだ。

 未亡人となった廣枝の妻・ふみは、戦後茨城に戻り、行商をしながら子供を育てていたが、夫の戦死の原因も、亡き夫を静かに祭っている台湾人らがいることも知らなかった。

◆「夫の死は無駄ではなかった」未亡人が戦後40年たって知った真実

 戦後31年が経過した1976年、劉維添と戦友たちは、命の恩人をもっと具体的な形で祭る方法はないか話し合い、その結果、廣枝の廟を建てることが提案された。しかし、旧日本軍兵士を祭る廟の建設に政府の許可が出るはずもなかった。結局、警察官だった頃、廣枝にゆかりのあった苗栗県竹南鎮の獅頭山勧化堂輔天宮に、位牌(いはい)を安置することにした。

 翌77年3月、日本人と在日台湾人の警察OBで構成される「元台湾新竹州警友会」が日本で会合を開き、劉らによる廣枝の死に関する調査委員会設置を提案する書簡が公開された。同年末には、会員たちが取手市の弘経寺にある廣枝家の墓地内に顕彰碑を建立した。ふみ未亡人は、夫の死の理由を知り、「彼の死は無駄ではなかった」と語った。

 それ以来、劉と戦友たちは、毎年9月になると獅頭山の輔天宮を訪れ、廣枝の慰霊祭を行った。1985年、60歳を過ぎた劉は、マニラ・イントラムロス地区を再び訪れ、聖オーガスティン教会の近くにある廣枝の臨終の地から一握りの土を取り、日本のふみ未亡人に送り届けた。戦後40年目にして、「ヒロエ隊長」を家族のもとに帰すという最大の願いをようやくかなえたのだった。

 1989年、ふみ未亡人が76歳で亡くなると、劉は輔天宮に安置されている廣枝の位牌にふみの名前を刻んだ。

◆次世代が引き継いだ、日台の友情

 年がたつにつれ、生還した隊員たちも次々と世を去っていった。毎年の慰霊祭に訪れる人も年々少なくなり、2007年にはついに劉維添だけになってしまった。 しかし、2008年、日本人の渡邊崇之が劉を訪ねて来たことで、事態は一転した。当時、渡邊の年齢は40歳手前。奇しくも台湾の若者を率いてフィリピンに行った時の廣枝と同じ年代であった。

 渡邊はもともと、日本のコンサルティング会社で、アジアビジネス担当として、日本企業の海外でのフランチャイズ設立や、日本企業の台湾から中国への移転をサポートしていたが、台湾に渡った後、会社を離れ台湾で起業した。

 台湾の日本語世代の集まりである「友愛会」にしばしば参加していた渡邊は、会で聞いた劉維添の話に深い感銘を受けた。

 2009年、渡邊は台北で台湾人と在台日本人を募って獅頭山を訪れ、劉とともに廣枝の霊を弔った。初年度は9人乗りのワンボックスカーに乗り込める人数だったが、その後、2018年には参加者が30人を超えている。

 2013年9月21日、劉維添は苗栗県頭?の病院で息を引き取った。この日はちょうど廣枝の追悼式の日であった。渡邊は廣枝の慰霊碑に「劉小隊長は天国の部隊に戻った」と報告し、今後は自分たちが劉に代わって慰霊を続けることを誓った。

 2020年9月26日、「第45回廣枝音右衛門慰霊祭」が例年通り、獅頭山・輔天宮で行われた。新型コロナの影響で、日本在住者はリモートで供養祭に参加、台湾在住の日本人や台湾人20人以上が現地に集まった。

 廣枝の慰霊祭は、渡邊と劉の娘婿に引き継がれ、日台の友情の物語を描き続けている。

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林翠儀(LIN Tsuei Yi)台湾自由時報東京特派員。政治記者として10数年、その後、90年代初めに起こった台湾の日本ブームで、日本語を勉強。その後、社内で編集や日本語翻訳へ活躍の場を広げる。著書に『哈日解●雑貨店』(印刻出版、2017年)がある。(●=病だれに隠)

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