マニラ市街戦から受け継ぐ絆のバトン(下)  渡邊 崇之

マニラ市街戦から受け継ぐ絆のバトン(下)  渡邊 崇之
廣枝音右衞門にみる、遵法精神を超えた博愛精神
 
 廣枝音右衛門(ひろえだ・おとうえもん)の名前を知る人は、台湾でも日本でも幾人い
るだろう。

 大東亜戦争末期の昭和20年(1945年)2月23日、フィリピンのマニラ近郊に上陸したアメ
リカ軍と対峙する海軍巡査隊の隊長として、多くの台湾人日本兵の命を救ったのが警部の
廣枝音右衛門だった。

 この廣枝警部に命を救われた部下の劉維添(りゅう・いてん)氏らが未だ戒厳令下にあ
った1976年(昭和51年)9月26日、苗栗県南庄郷にある獅頭山勧化堂(しとうざん・かんげ
どう)にて廣枝警部の慰霊祭を斎行した。以来、毎年欠かさず慰霊祭が執り行われてきた。

 4年前、台湾李登輝学校研修団一期生で台湾で活躍中の渡邊崇之(わたなべ・たかゆき)
氏が廣枝警部の事績を知って獅頭山勧化堂を訪れ、劉維添氏と知り合う。以来、渡邊氏も
日本語世代の知人を誘ってこの慰霊祭に参列。

 渡邊氏は「マニラ市街戦から受け継ぐ絆のバトン─廣枝音右衞門にみる、遵法精神を超
えた博愛精神」という一文で、この廣枝音右衛門たちの戦いの模様や、劉維添氏らが慰霊
祭を始めたことなどについて記している。いささか長いので、前号と今号でご紹介したい。
読みやすさを考慮し、中見出しは編集部で付したことをお断りする。

 なお、廣枝音右衛門の義挙は日本にも伝わり、昭和52年(1977年)11月、ふみ未亡人も
眠る茨城県取手市内の弘経寺に「遺徳顕彰碑」が警友会有志によって建立されている。


◆獅頭山勧化堂で初の慰霊祭

 時が流れること31年。1976年9月26日、台湾中部の猫栗県竹南鎮獅頭山勧化堂(しとうざ
ん・かんげどう)にて故廣枝音右衛門警部(戦地に赴く前には台湾新竹州の警部を務めて
いた)の英霊安置の式典が行われた。

 当時はまだ中国国民党による戒厳令下の施政で、旧日本軍人を祀ることなど不可能に近
かった時代である。そのため、廟の建設などは不可能に近く、劉維添(りゅう・いてん)
氏をはじめとする生還した元隊員たちは普段より誼(よしみ)の深い獅頭山にお願いし、
永代仏として合祀、供養してもらうことにした。これならば、当局の許可も要らず、隊員
たち亡き後も、寺が永代にわたり供養してくれることになるからだ。それから、この式典
の日を安置日の9月26日と定め、毎年欠かさず慰霊祭を執り行ってきた。

 当時は多くの戦友とともに慰霊祭を行っていたものの、歳月の流れとともにその数も減
り、4年前には生き残った5名のうち、立て続けに4名が他界し、今は劉氏ただお一人である。
4年前は気丈にもお一人で慰霊祭を催されたという。

 筆者がこの劉氏と初めて出会ったのは、お一人で慰霊祭を執り行われた直後のことだった。
それ以降、毎年、慰霊祭に参加させてもらっている。今年は9月25日(日)午前11時頃から
執り行われる。

◆廣枝警部が劉維添氏に宿した遺徳

 劉維添氏。今年で90歳となる現在も矍鑠(かくしゃく)とされている。若き日の軍隊生
活における習慣からか、いつも背筋がピンと伸びていて、相対する方も自然と身が引き締
まる。それでいて、自然と醸し出される温かみがある。

 これは余談になるが、日本統治時代に功績のあった日本人を神として祀って下さるご神
体像は、どの像も背筋がピシッと伸びているのが印象的だ。恐らく当時の台湾人からは日
本人は常に背筋を伸ばしているように映ったのだろう。その教育を受けた劉氏にも、それ
が自然と受け継がれているように感じる。

 筆者自身は廣枝音右衛門警部にもはやお会いすることはできないが、劉氏を通じて、そ
の遺徳はまばゆいばかりに伝わってくる。それは、劉氏の伝聞による廣枝氏の生き様だけ
でなく、劉氏自身の生き様を通してもひしひしと伝わって来るのだ。廣枝氏が台湾人の劉
氏に宿した遺徳に、時代を超えて今、日本人である筆者が浴することができている。

 では、劉氏の生き様を通じて廣枝氏が見えて来るように、自分は数十年後に、自分の生
き様を通じて劉氏、廣枝氏を後世に伝えることができるのだろうか? このコラムタイト
ルに名付けた「日台絆のバトンリレー」─これは自分の生き様への挑戦でもある。

 1985年、劉氏は妻を伴ってあの激戦地マニラに再び足を踏み入れた。実に40年ぶりだっ
た。廣枝氏自決の場で拾った土を、茨城県取手市に住む、ふみ夫人に渡すためである。

 劉氏曰く「ふみ夫人に廣枝隊長自決時の土を渡せたことは一生の幸せであった」とのこ
とだ。その土は全てふみ夫人に託し、劉氏自身はお持ちでないと聞き、筆者はどうしても
劉氏の側にその土を捧げたくなった。

 目を開けると、壁上からカップルがまだこちらの様子を伺っている。どうやら筆者の奇
行が会話のネタになっているようだ。泥だらけになった姿に見かねた露天の店主が、これ
で手を拭けと、濡れたタオルを手渡してくれた。

 この土は現在、獅頭山勧化堂の静寂さに包まれて、廣枝氏の位牌と共にある。

◆劉氏が伝えるエピソード

 廣枝音右衛門は1905年(明治38年)12月23日、現在の小田原市にある神奈川県足柄下郡
片浦村で生まれた。日本大学の予科に入学した後、1928年(昭和3年)に陸軍歩兵隊に入隊
し、軍曹として軍務を経験している。

 その後、湯河原で小学校教師をしたが、1930年(昭和5年)には退職し、台湾警察官を志
して台湾に渡ることになる。 台湾に渡ってからは警察官として順調に出世をし、1942年(昭
和17年)には警部にまで昇進している。その後、1943年(昭和18年)に海軍巡査隊の大隊
長として、台湾人巡査隊のフィリピン派遣総指揮を任されることとなる。

 廣枝氏はその分け隔てない慈愛の心、博愛の精神で台湾民衆から幅広く愛され、「ひろ
え警部、ひろえ警部」と慕われていた。ちなみに、名字は「廣枝(ひろえだ)」だが、台
湾では「ひろえ」という愛称で親しまれていたようだ。廣枝氏の部下で、ただ一人ご存命
の劉維添氏も廣枝氏のことを今でも「ひろえ警部」、「ひろえ隊長」と呼んでいる。

 劉氏は元々は警察官でなく、志願して海軍巡査隊に入隊したため、廣枝氏と出会うのは
海軍巡査隊が組織された1943年(昭和18年)12月のことだ。 そのため、実際に廣枝氏と行
動をともにしたのはわずか1年数ヶ月ではあったが、昨日のことのように懐かしみながら、
数々のエピソードを語ってくれている。

 その劉氏によると廣枝氏は決して怒ったり、叱ったりするようなことはなかったそうだ。

 叱るべき時は常にゆっくりと、かつ、しっかりとした口調で諭していた。常日頃からそ
の威厳だけで十二分に尊敬と畏怖を念を抱いていた隊員たちは、諭されるだけでもすぐに
姿勢を正したという。

 日頃の言動からにじみ出る仁徳というものは、時に無言でも人を従わせる力を持つ。逆
に、常に怒鳴り声を張り上げる上官は仁徳のなさの裏返しということにもなろう。 劉氏ら
台湾人巡査隊はそれを敏感に感じ取っており、廣枝隊に属する自分たちを誇りに思ってい
たそうだ。
 
 また、マニラ郊外のラスピニヤスにおける飛行場建設現場でのこと。建設には捕虜約600
人を使役し、廣枝隊はその監視の任務を担っていた。その捕虜の通訳には朝鮮人がいた。
その朝鮮人がことあるごとに、捕虜に暴行を加えていた。廣枝氏はその状況にひどく心を
痛め、部下たちには「捕虜と言っても我々と同じ人間なのだから、あのような真似は決し
てしないように。慈愛を持って接してやってくれ」と諭したと言う。

 また、戦闘中には、重傷を負った部下たちを抱き寄せ、大声で名前を呼び、目には涙を
ためながら励まし続け、迫撃砲弾が降り続く中、危険を顧みず5キロも離れた病院へ重傷者
を自ら護送した。

 これらの話を聞くにつけ、廣枝氏の博愛精神が良く伝わって来る。この精神は台湾での
警察官時代にも同様に発揮されていたようだ。 劉氏はフィリピン派遣以前の廣枝氏と一緒
に勤務していた台湾人巡査からエピソードを聞いていたようなので、そのいくつかを紹介
したい。

 廣枝氏が司法主任だった時のこと。当時、博打は厳しく禁じられていたが、台湾では未
だ博徒たちが数多くいた。 博打で捕縛されると、どんなに軽くても29日以上の拘留が待っ
ていた。

 しかし、廣枝氏は杓子定規には日数を決めず、心から反省していると認めた博徒には拘
留期間を短縮するなどの措置を取り、博徒の積極的な更生を心がけていた。

 またある日、巡察中に木陰で賭博をしている者を発見すると、その博徒たちはすぐにち
りぢりになって逃げ出して行った。台湾人巡査の部下が追いかけようとすると、それを制
止し、次のように諭した。

「処罰することが目的ではなく、人々の悪習を矯正して教化することが真の目的なのだか
ら、悪いと認識して逃げた者たちを無理に追い詰める必要はない。彼らもわかっているは
ずだ」

 当時の警察官は単に治安維持だけでなく、民衆の教化全般まで担っていた。 遵法意識が
はっきり定まっていない当時において、民衆の遵法意識を高めることと同時に、極度な法
治偏重主義に陥らず、慈愛を持って接し、民衆との信頼関係を築いて教化するという高度
なバランス感覚が求められていたはずだ。

 当時の日本人警察官、教員の中にはこの高度なバランス感覚を発揮して、台湾民衆から
慕われたエピソードが数多く残っている。 そして時にはそのバランスの中で苦しみ、自ら
命を絶つことでその使命を果たそうとした者もいた。

 廣枝氏のマニラ戦地での自決も、この狭間に立たされた末の究極の決断だった。多くの
上官は軍司令部からの命令を忠実に守り、部下に突撃を命じた。それを自らのところで差
し止めてでも台湾人部下を守ろうとする覚悟は、当時の情勢に鑑みても死をもってしか果
たすことが出来なかったであろう。

 時には命令に背いても、法を犯しても成し遂げねばならぬことがある。真に守るべきも
のは何か? 自らが果たすべき役割は何か? 頭だけでなく体の真髄にまでその答えがは
っきり沁みわたっていないと、出来ぬ決断であろう。

 今年も慰霊祭が9月25日に行われる。今年も静かに祈りたい。死しても尚、確かに生き続
けている廣枝氏が遺したこの「守り通したもの」を感じるために。
                                     (了)

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