「疫病の地」を「防疫の島」に変えた台湾衛生学の父・高木友枝  林 翠儀

「疫病の地」を「防疫の島」に変えた台湾衛生学の父・高木友枝  林 翠儀

【nippon.com:2022年9月10日】https://www.nippon.com/ja/japan-topics/g02192/

 2018年末、台湾中部の彰化高級中学(=高校)で「高木友枝典藏故事館(記念館)」のオープニングセレモニーが開催された。台湾衛生学の父・高木友枝(たかぎ・ともえ)の孫にあたる板寺一太郎さん(故人)の妻で93歳になる慶子さんが出席した。式典では陳建仁副総統(当時)自らが慶子さんに感謝を伝えた。

 2022年4月には台北駐日経済文化代表処の謝長廷代表(大使に相当)が慶子さんの自宅に赴き、高木友枝にまつわる貴重な資料を無償で彰化高校に寄贈した理由を尋ねた。慶子さんは同校の人間愛教育に賛同し、学生が歌う童謡『赤とんぼ』に涙するほど感動したからだと答えた。慶子さんは教会の神父にも相談し、高木友枝の銅像と文献などを台湾に寄贈することにした。謝代表によれば、慶子さんは会見中、話題が台湾の話になるとうれしくて笑いが絶えなかったそうだ。

 高温多湿の台湾は、日本統治時代の初期は熱病がまん延する「疫病の地」と言われた。それから100年余を経て、「疫病の地」は「防疫の島」へと変化した。特にコロナ禍で、いち早く感染の拡大を抑え、人々は混乱することなく2年以上過ごしている。ウイルスの毒性が最も強かった時期に島内への侵入を防ぎ、世界中から注目されたのだった。

◆防疫成功の背景に日本統治時代

 台湾が新型コロナの抑え込みに成功した背景には2003年のSARS流行の際に得た教訓のほかに、迅速な法令改正や対策の分業体制を確立したことがある。また、公衆衛生観念が広く行き渡り、高い医療水準があることも寄与した。さらに民進党政権では高官の多くが医療と公衆衛生の専門家であったことも関係している。

 日本と同じように、台湾でも風邪をひけば、公共の場でマスクをするのがマナーとなっており、手洗いやうがいの習慣も定着している。また台湾の医療水準は世界トップクラスと言われ、グローバルデータベース「Numbeo」が発表したヘルスケア指数では世界1位となった。

 台湾が「疫病の地」から「防疫の島」へ進化したことを語る上で、日本統治時代に打ち立てられた公衆衛生の基礎があったことは外せない。

 日本統治時代に近代化に尽力した人物と言えば、第4代総督の児玉源太郎の下で民政長官を務めた後藤新平が挙げられる。後藤が重用した同郷の親友が高木友枝だった。高木が台湾の医療・衛生の基礎を築いた功績は非常に大きい。

 高木は台湾大学医学部の前身である台湾総督府医学校の校長や台湾総督府研究所の初代所長、台湾電力株式会社の初代社長などを歴任した。公衆衛生とエネルギー発展に大きく貢献し、「台湾衛生学の父」と呼ばれている。

◆台湾衛生学の父・高木友枝

 福島県出身の高木友枝は、東京帝国大学医学部を卒業後、「日本の近代医学の父」で細菌研究者の北里柴三郎が設立した私立伝染病研究所に入所した。ちなみに北里は2024年度から新千円札の肖像画として登場することになっている。高木は北里の一番弟子とも言える存在で、台湾赴任後も北里の研究所とは緊密に連携していた。

 高木が後藤新平と親交を深めたのは大学時代だった。1898年、後藤は台湾総督府の民政長官に就任した際、高木の感染症分野での研究業績に注目。1902年、高木を台湾におけるペストとコレラ撲滅の責任者として招へいした。その後、台湾総督府医学校の第2代校長と医学部長を務め、感染症の予防と治療に力を尽くした。

 また、防疫知識の啓発にも積極的に取り組んでいる。常に通訳を連れて一般市民への講演を開いた。慶子さんが保管していた資料から、当時、高木が撮影した先住民族の写真が多数見つかっている。これらは高木が辺ぴな村々まで訪ねていた証拠と言えよう。

 高木は医療人材の育成や学術研究の向上にも力を入れ、後藤を説得して1909年に台湾総督府研究所を設立し初代所長に就任している。この研究所では地元の風土に根ざした化学や医学などの研究分野を開拓している。高木は所長を務めた11年間で179本もの論文を発表した。

 1911年2月、高木はドイツで開催された万国衛生博覧会に参加し、台湾の医療衛生環境の改善状況について講演した。当時ドイツで出版された著書によると台湾では過去7年に10カ所の総合病院、1カ所の分院を開設し、80人の医師を配置。さらに20カ所の地方衛生機関を設立したと記されている。また、当時は8つの深刻な感染症が存在したが、そのうち発疹チフス、赤痢、マラリア、猩紅熱(しょうこうねつ)の4つは減少して日本本土より少なくなり、ジフテリアに至っては撲滅。肺結核とハンセン病も減少し、日本より多いのはペストを残すのみとなっていた。ペストは1896年以来台湾全島で猛威を振るっていたが、20年の歳月を経て1917年に根絶に成功している。

 高木は台湾人学生から大変慕われていた。台湾初の医学博士である杜聡明や「台湾新文学の父」と呼ばれる頼和、孫文らによって東京で結成された「中国同盟会」に台湾人として初参加した翁俊明らも高木の学生だった。高木の人格教育における格言である「医者である前にまず、人間であれ(為醫之前,必先學為人)」は、後に杜聡明が高雄医学院を設立した際に校訓として現代に伝えられている。

 高木が総督府医学校の校長だった頃、台湾にはまだ近代的な公衆衛生の考えがなかった。当時、医師の待遇は良いとは言えず、養成には5年も掛かるため学生募集には苦労していた。そこで高木は自ら台中や台南、台東など各地を回って入学試験を開催した。

 また京都帝国大学から卒業生を教員として招へいし、高木自らも生理衛生学の授業を担当した。ほかにも留学制度を設け、教職員にドイツ研修の機会を作った。1919年までに総督府医学校は500人以上の台湾人医師を養成し、彼らは台湾の現代医療推進の主な戦力となっていった。

 杜聡明は著書の中で、恩師の高木を崇高な人格者で見識の高い学者であり、政治家であったと回想している。参考文献にもあるように、1912年の辛亥革命後、台湾総督府は抗日運動や学生運動に参加した学生の逮捕の準備を進めていた。しかし高木は「教育の独立性」と「校内自治」を理由に総督府に抵抗したのだった。同時に学生には、高木自身は革命運動に反対していないとした上で、計画的に行うことが肝要であり、失敗したら絞首刑が待っていると戒めている。1913年に日本の植民地支配に反対し蜂起を計画、死刑に処せられた台湾独立運動家・羅福星を例に挙げ、「君たちは我が医学校の優秀な学生だ、もし絞首台に上がったとしても羅福星のように笑顔でいなさい」と伝えたという。1921年、台湾の社会運動家・蒋渭水が林献堂らと「台湾文化協会」を設立した際には、高木も列席し若者への支持を表明した。

 高木が台湾で過ごしたのは44歳から72歳までの28年間、9人の総督の時代を過ごした。4人目の総督にあたる明石元二郎(第7代、1918〜1919)は高木の人格や見識、そして政治への関心が強い気質を考慮し、「日月潭水力発電プロジェクト」を任せることにしたと言われている。台湾総督府は各地の公営ならびに民間の発電所を合併し、半官半民の「台湾電力株式会社」を設立、1919年に高木が初代社長に就任している。

 元々、台湾電力は日月潭の水力発電開発のために設立されたが、第一次世界大戦後の不況と関東大震災の影響から計画が遅れていた。周辺工事をいくつか完成させた1929年、高木は10年間の任期を終えて台湾を離れ、1943年に85歳で亡くなった。

◆台湾の高校生がつないだ日台100年の友情

 高木友枝の台湾医療、公衆衛生への貢献は、戦後の国民党政府の「脱日本化」政策の下で台湾人に知らされることはなかった。例えば1917年に総督府医学校の講堂の前に卒業生が建てた初代校長の山口秀高と第2代校長の高木の大理石の胸像は、戦後に撤去され、蒋介石の銅像に置き換わっていた。しかし近年の政権交代後、台湾自身にアイデンティティーを求める「本土教育」が進むなか、日本統治時代の歴史を調査する学生が出現している。

 彰化高校図書館の呂興忠主任は「台湾現代文学の父・頼和」をテーマに生徒と研究活動をしていたところ、頼は恩師である高木を非常に尊敬していたことに気付く。頼が高木を「他にはいない先生」と言っていたというエピソードに生徒も心を動かされ、高木と台湾の歴史的なつながりを研究し始めたという。そして政治によって抑え込まれていた日台100年の友情の物語を発見したのだった。

 2011年、呂さんは生徒を率いて高木の外孫である板寺一太郎さんと慶子さんを訪ねた。一太郎さんはかつて大学に勤めていたこともあり、台湾からやって来た高校生らを驚きと喜びをもって迎えたそうだ。そして板寺家で所蔵していた高木の胸像を披露してくれたという。胸像は台湾の国宝級彫刻家の黄土水が1929年に制作したものだったことが分かった。

 2013年に一太郎さんが亡くなった後も、彰化高校の生徒らは毎年の訪日調査の機会を利用して慶子さんとの交流を続けていた。後に彰化高校へ寄贈されることになる高木の胸像や1920年代の台湾の医学教育、水力発電事業、先住民族などに関する200点以上の貴重な資料は、こうした交流が実を結んだからだ。さらに同校では「高木友枝典蔵故事館」を設立することになった。

 資料の数々を、当時、台北市立美術館や台湾大学医学部が保管に手を挙げ、奇美博物館に至っては高木像を3500万台湾ドル(約1億6000万円)で買い取りたいと話題になったが、全て彰化高校に渡っている。

参考文献・林炳炎 (2001-09)〈點亮臺灣的高木友枝醫學博士〉・林炳炎 (1997年5月)〈重塑臺灣醫校長高木友枝博士的雕像〉・張名榕 (2019-05-17)〈教者之愛打動人心 高木友枝典藏故事館 落?彰化高中〉臺電・月刊 (臺灣電力) (677期)

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林 翠儀(LIN Tsuei Yi)台湾自由時報東京特派員。政治記者として10数年、その後、90年代初めに起こった台湾の日本ブームで、日本語を勉強。その後、社内で編集や日本語翻訳へ活躍の場を広げる。著書に『哈日解?雜貨店』(印刻出版、2017年)がある。

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