――英国殖民地だった頃・・・香港での日々(香港33)

【知道中国 2151回】                       二〇・十・念八

――英国殖民地だった頃・・・香港での日々(香港33)

 

第一日文共同経営の3先生の中で、最も親しく多くの教えを受けたのはD先生だった。その多くはブランデーをガブ飲みしながら・・・ではあるが。

たしか昭和元年の中国生まれ。父親と言う方の交友関係は甘粕正彦、川島浪速、肅親王から大森曹玄まで。朝鮮総督時代の斎藤実が身元引受人だったと聞いた時には、完全に酔いが醒めた。

1916年に川島らが起こし失敗した第二次満蒙独立運動に加担したとのことだが、その後、山東自治聯軍に参加し、奉天派軍閥で山東省を押さえた張宗昌と義兄弟の契りを結び、日本人から中国人に。中国名の張宗援には、張宗昌を応援するという思いが込められている。

山東自治聯軍当時は青島が拠点であり、D先生は青島中学で学んでいる。は山東自治聯軍は最盛時に3万ほどの兵士に軍用機までも擁していた。小学校高学年になった頃、D先生も馬賊盗伐の前線へ。その際、拳銃は必携だった、とか。

ある時、山東自治聯軍と日本軍との関係を尋ねると、「海軍はなにくれとなくオヤジを支援してくれたが、陸軍は利用するだけ利用して・・・」と。

昭和20年に入ると、家族と別れ1人で日本へ。「日本人だが日本に住んだことがなかったから、日本の生活様式には面食らったよ」。玉音放送は飛行訓練中の琵琶湖近くの基地で。

たった1人の日本である。そこで父親の伝手を頼って山形の石原莞爾の許へ。病身の石原の身の回りの世話をした。ならば極東軍事裁判の出張尋問が山形で行われた際、病躯の将軍をリヤカーに乗せて訊問会場に向かったのはD先生ではなかったろうか。この点を聞き洩らしてしまったことが、なんとも悔やまれる。

その後、先生は拓大から国鉄関係の会社勤務を経て香港へ。T、Yの両先生と共に第一日文を創設し、日本語教育を通じた日中の相互理解を目指した。

第一日文での授業が終わると馴染みの上海料理屋へ。これが定番だった。ボーイがテーブルにブランデー(お好みは「ヘネシー」だったような)を置く。栓を開ける。ブランデー・グラスなどではなく、コップにドバドバッと注がれる。氷を少し入れて、後は一気に喉の奥へ。こちらが振るう“他愛もない熱弁”を肴に、D先生のピッチも上がる。

日本語教師のアルバイト料の値上げをお願いすると、「お前らは国士だ。国士らしくツベコベ言わずに日本語を通じて日中の相互理解に努めろ!」とゴ立腹の態。「ならば先生、我われの集まりを“こくしかい”を名づけましょう」と提案。「それがいい」と快諾。そこですかさず、「平仮名で“こくしかい”にして、先生は国士会で、我われは酷使会ではどうでしょうか」。

思い出は尽きないが、殊に忘れ難い一齣を。

ある時、「今日は面白いヤツに合わせてやる」と、繁華街の奥の奥にある古びた北京料理屋へ。D先生の姿が目に入ったのだろう。すでに着席していた3人が立ち上がって畏まる。D先生は「不要客気!随便坐下!(無礼講で)」。すかさず料理が運ばれ、酒が注がれる。打ち解けた雰囲気の中で交わされる話から判断して、3人は香港の住人ではなく、数日後には大陸に戻るらしい。年下であるD先生への対応は恭しく、どこか懐かし気に感じられた。

その後も、こういった集まりには何回か同席が許されたが、客は同じ顔触れというわけでもなかった。D先生は父親のかつての部下と連絡を取りながら揺れ動く中国国内の最新情報の把握に努めていたのではと、当時は想像を逞しくしたものだ。

D先生と新界を2日間ほど歩き、中国大陸が望見できる、Y先生の生涯に相応しい場所を探した。山上の大きな岩を墓石に見立て、分骨を葬った。両先生の思いを繋ぐその場所は、いまは解放軍香港駐屯部隊の管制下にあり、立ち入りが固く禁じられている。《QED》


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