――英国殖民地だった頃・・・香港での日々(香港212)
ウマそうだから可愛がるのか。可愛いからウマそうなのか。いや、ウマイから可愛いのか。可愛いさが余ってウマサが百倍に跳ね上がるのか。可愛いがることと食べることとは矛盾しないのか。いや相乗効果を生むのか――色々と考えさせられもする。
だが客からすれば、こんな愚にも付かないことを考える暇があったら、とにかく箸を動かせ、だろう。「キャン、キャ、キャーン」の断末魔の鳴き声など耳に入っても心を動かされるはずもない。炭火の上でグツグツと煮え立つ鍋に野菜を入れ、トロトロに煮えた犬肉と共に口に運び、酒を交わし、そぞろ寒さと真っ赤に熾きた炭の臭いを愉しむ。香肉(おいぬサマ)の鍋こそ、寒い季節の香港の街角の屋台で味わうことのできたBC級――いや超D級か――グルメ王者だったと確信する。国家安全維持法などで厳しく目を光らさなければならないような現在の香港では、絶対に味わえない至福の、奇跡の一刻ではなかったか。
沙田に引っ越してからも、相変わらず生活の柱は第六劇場通いだった。
安全走行のために、九広鉄道の軌道の両側は高さ2・5メートルほどの頑丈な金網で囲われていた。だが線路を横断するする地域住民のために、景園近くでは線路を挟んで2か所の開口部が設けられていた。この開口部から線路内に入り、線路の上を4、5分歩くと沙田駅に着く。
沙田駅へ行くには、線路沿いに並んだ海鮮レストランの前を通るルートもあったが、時に見るからに皮膚病といった野良犬に吠えられ(あれは決してウマそうには見えなかった)、また犬の糞の臭いが漂っていたので敬遠したものだ。それでも休日になると、沙田の海鮮料理を求めてやって来る客でごった返していた。彼らは近くの山の上にある寺に参詣した後、海鮮料理に舌鼓を打つわけだ。店の前の生け簀では沙田で捕れる魚が泳ぎ、別に貝類や大小の生きたかぶとガニも並べられていた。かぶとガニはどんな味がしたのか。高そうだったこともあり、ついぞ食べる機会を失した。悔いが残るばかりだ。
レストランにはギターを抱えた流しがやって来て、客の注文に応じて唱っていた。さて一曲いくらだったのか。
九広鉄道の月台(プラットホーム)の高さは30センチほどだから、線路からプラットホームに簡単に上り、列車を待つことになる。当時の沙田駅はレンガ壁のマッチ箱のように小さな駅舎で、軒が先端に向かって反り返る形の中国式の切り妻屋根を載せていた。
駅舎内で働いていた駅員は4、5人ほどではなかったか。日本式には8畳間ほどの広さの待合室を出ると、目の前を新界と九龍を結ぶ幹線道路の大埔道が走り、その向こうにテント張りの店が軒を並べる墟市(マーケット)が広がり、その先が沙田海だった。当時は埋め立て工事開始前後で、沙田海はまだ狭くなってはいなかった。その先は吐露海峡がつながり、沙田海から吐露海峡にかけての海域を1週間ほど掛けて遊弋漁(ワンダリング)する漁船が見られたものだ。吐露海峡の出口に位置する扁洲、塔門洲、赤洲などの島々の間を抜けると、その先に大鵬湾が広がっていた。
九広鉄道を使い始めて程なく、曽妹から教えられ月票(ていきけん)を買った。名刺の半分ほどの大きさの顔写真を駅の窓口に持って行くと、名刺大の厚紙に大きなハリのホチキスで2か所をパチリ、パチリと止めてくれる。
沙田駅では改札口を通らずに乗車するが、時に車内で検札が廻ってくる。終点の九龍駅の改札で月票を見せ、駅の向こうの巴士総站(バス・ターミナル)で新亜研究所方面行きのバスに乗る。月票で2、3か月通った辺りで、不思議な光景が気になった。じつは九龍駅で列車から降りる客が改札口とは反対の操車場の方に向かう。それも少なくない。そこで彼らの後を追ったところ、偶然にも生活経費節減の道が見つかったのである。《QED》