――英国殖民地だった頃・・・香港での日々(香港166)

【知道中国 2284回】                       二一・十・初四

――英国殖民地だった頃・・・香港での日々(香港166)

最初に訂正を。春秋戯劇学校の住所だが、今の今まで尖沙咀の宝勒巷と思い込んでいた。だが、改めて半世紀ぶりに戯単を見返してみると、欄外に「本校地址:九龍赫徳道十四号三至四楼」と記されているではないか。どうやら道を1本勘違いしていたらしい。赫徳道(HART AVE)は宝勒巷とほぼ平行に走っているが、尖沙咀の先端に近い。とすると数学教授に連れられていった猿料理の店は、赫徳道を挟んで春秋戯劇学校の向かいの路地裏にあったことになる。

閑話休題。

ここで禁戯について簡単に触れておきたい。それというのも、政治でも経済でもない側面から香港の役割を見直してみたいと思うからである。

建国以前の中国における庶民の最大の楽しみは「吃喝嫖去聴戯」、あるいは「吃喝嫖抽大烟」と言われていた。吃(料理)、喝(酒、あるいは茶)、嫖(おんなあそび)、去聴戯(しばい=京劇)あるいは抽大烟(アヘン)である。じつは古典演劇は基本的に唱(うた)が主であることから、芝居は看るのではなく聴くものだった。

ザックリと表現するなら、中国では上は皇帝から下は名もなき庶民に至るまで――身分の上下、貧富の差、教養の違い、学問の有無などを超えて、芝居は社会を構成する全ての人々が愉しむことのできる文化的・社会的装置だった。だからこそ芝居は娯楽であると同時に、民衆教化、政治教育、思想洗脳の手段たり得たわけだ。

その演目を禁止するということは、封建王朝であれ辛亥革命以降に誕生した近代国家であれ、権力の側からすれば不都合な内容を伝えるからであり、そのような芝居に民衆が慣れ親しむことを排除する必要があるからと見なすからである。いわば禁戯措置を受けた演目は、政治権力の基準に照らして公序良俗に反するということになる。

たとえば18世紀末の乾隆五十(1785)年から清朝崩壊の宣統三(1911)年の間、清朝は総計で80本ほどの演目を禁戯措置にした。それら演目が観客を「盗」や「淫」の犯罪に煽りたてる恐れあり、というのが理由だ。ではなにが「盗」や「淫」なのか。当然のように清朝の支配秩序・道徳律が基準となっている。

清朝崩壊の後に誕生したアジアで最初の立憲共和政体を備えた中華民国では、1912年の建国から1949年の中華人民共和国建国までの37年間に、51本が禁戯措置を受けた。それら演目が「国民党の党義に反し邪説を公言する」「治安を乱す」「封建思想を提唱する」「迷信を流布する」「悪事を誘う」「若者を淫乱・猥褻に導く」「人道に悖る残忍さを指し示す」「個人や団体を侮辱する」「その他、観客の心身を傷つける」からというのが、公演禁止の理由である。

満州事変から1945年までの14年間、「淪陥区」と呼ばれた日本軍政下の地区では9本が禁戯とされたが、その全てが「異民族支配の理不尽さ」「異民族への反撃・反抗」をテーマにしている。すでに指摘しておいたように、舞台のうえで理不尽に振る舞う異民族が日本軍を指していることは敢えて指摘するまでもないだろう。

国共内戦に敗れ台湾に逃げ込んだ?介石政権も禁戯措置を取った。1949年から国民党一党独裁体制が崩れた1990年までの間、すでに示した「四郎探母」を含む15本の演目が禁戯に指定されている。ここで興味深いのが「覇王別姫」に加え、「文姫帰漢」「昭君出塞」が含まれていることである。

たしかに「覇王別姫」は?介石・宋美齢夫妻の敗残の姿を容易に連想させる。夷狄に嫁いだ漢族の哀切さを描き出す「文姫帰漢」「昭君出塞」は、外省人の里心を呼び起こしかねない。やはり共産党に敗北した現実を故意に忘れ去ろうとしたに違いない。《QED》


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