――習近平少年の読書遍歴・・・“あの世代”を育てた書籍(習94)

【知道中国 2428回】                       二二・九・卅

――習近平少年の読書遍歴・・・“あの世代”を育てた書籍(習94)

 毛沢東が仕掛けた米中対話路線工作が本格的に動き始めた頃と思われる71年6月、ニコラエ・チャウシェスク書記長夫妻を筆頭とするルーマニア共産党・政府代表団が中国共産党・政府の招待を受け北京を公式訪問した。

一連の訪中行事を記録した『中羅両国人民的戦闘友誼万歳』に拠れば、一行は「毛主席と彼の親密な戦友である林彪副主席」との会見以外に数々の公式行事を行った後、9日には「中国羅馬尼亜聯合公報」に調印している。因みに羅馬尼亜はルーマニアの漢語表記。

同「公報」には、「発展する現下の国際情勢は、ますます各国人民に有利に、米帝国主義と一切の反動派にとって不利に展開しているという認識で双方は一致した。目下のところインドシナは全世界人民の反米闘争にとっての主要な戦場であると、双方は指摘した。ヴェトナム、カンボジア、ラオスの反米救国戦争を断固として支持することを、双方は重ねて言明した」と記されている。

ここで疑問を持つ。なぜチャウシェスクでありルーマニアでなければならないのか。

じつは国内では超過激な文革を継続し、国外に向かってはソ連社会帝国主義反対を叫んでいた当時の中国は、世界の社会主義陣営においては孤立していた。そこで北京はルーマニアとアルバニアの両国共産党と“兄弟党の固い契り”を盛んに内外にアピールすることで、孤立を押し隠そうとし、チャウシェスクもまた自らの独裁体制を強固にすることを狙って文革への熱烈なる支持を表明した。

有り体に言えば、ソ連を頂点する社会主義陣営から“村八分”に近い扱いを受けていた両国であればこそ、手を結ばざるを得なかった。言わば“引かれ者の小唄の輪唱”である。

公式行事のハイライトは「毛主席と彼の親密な戦友である林彪副主席」とルーマニア代表団との「心からなる会見」だった。陪席した北京側要人は周恩来、康生、黄永勝、姚文元、李先念――これが当時の北京上層の権力序列だろう――であった。

この時、すでに林彪は非公式ながら毛沢東の「親密な戦友」ではなくなっていたはず。もちろん非公式だから、毛沢東でもルーマニアの賓客に公言するわけにはいかない。内輪の恥は曝したくない。さて毛沢東と林彪の2人は、どんな気持ちで「心からなる会見」の場に臨んだのか。想像するに、さぞや奇妙な、ぎこちない光景が展開されたことだろう。

その場で毛沢東は「ルーマニアの同志に対し喜びを込めて『同志諸君、ご機嫌よう。諸君のさらなる健康を切望します。団結して帝国主義と一切の反動派を打倒しようではないか』と語り、これに対しチャウシェスク同志は『ルーマニア共産党と我が国人民を代表し、閣下に熱烈なる敬意を表します』と応じた」。恒例の共産党式エールの交換である。

6月8日、チャウシェスクは中国共産党(党)と中華人民共和国国務院(政府)に対する答礼宴を開き、一連の熱烈歓迎に対し感謝の意を表している。

この場でチャウシェスクは夫人を傍らに立たせたうえで、「ここで私は提案したいと思います。毛沢東同志と同夫人の健康のために、林彪同志と同夫人のために、〔中略〕勤勉で智慧に溢れる中国人民のために、ルーマニア共産党と中国共産党、両国人民の全面的合作協力のために、社会主義と各国人民の合作と世界平和事業の勝利のために、この場に参列する各位の健康のために、乾杯!」と挨拶を結んだ。ここでも恒例共産党式エールの交換だ。

それから3か月後の71年9月、林彪夫妻はソ連逃亡途中にモンゴルの草原に墜落死(?)。5年後の76年9月、毛沢東死去。8年後の89年12月発生のルーマニア革命でチャウシェスク夫妻は恐怖に戦きながら公開銃殺刑。10年後の91年5月、毛沢東夫人の江青は秦城監獄で自殺(?)。つまり71年6月の時点で両国の最高権力者の位置にいた3組の夫婦のうち、自然死を迎えたのは毛沢東のみ。“天寿全う確率”は6分の1。独裁者はツライ。《QED》


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