――習近平少年の読書遍歴・・・“あの世代”を育てた書籍(習14)
胡風(1902~85年)とは1930年代以降に上海を中心に「民族革命戦争のための大衆文学」を掲げた左派系作家の中心人物の1人であり、一貫してマルクス主義文芸理論の公式主義を批判した。建国後は文芸関連団体役員や全国政治協商会議委員を務めるものの、共産党政権からは干され続けた。
52年前後から共産党政権周辺の作家や文芸理論家から批判が起きていたが、これに対抗して「三十万言の書」を発表し、文芸工作における党の官僚主義的強権指導を徹底して批判した。この動きを自らの指導に楯突くものと激怒した毛沢東は自ら胡風批判運動を展開し、確たる証拠もないままに「胡風反革命集団」の頭目と決めつけたのであった。かくて胡風は55年5月に逮捕され、65年11月に懲役14年(合わせて6年間の政治権利剥奪)を受け、文革最盛期の69年には無期懲役に増刑判決まで下されている。
胡風事件に対し様々な評価が聞かれるが、決定的に重要な点は毛沢東と共産党政権の国家統治に対する“姿勢”が明らかになったことだろう。つまり毛沢東の意向に沿わない、あるいは反する言動は「反革命」と見なされ徹底して弾圧される、と言うことだ。
胡風事件によって、知識人と称する人々の毛沢東と共産党に対する徹底した「拍馬屁(へつらい)」の姿勢が明らかになった。当時、中国科学院院長を務めていた郭沫若が典型だが、彼らは自らの身を守るため最高権力者の毛沢東に忠誠を示し、積極的に「反革命分子」を摘発し、より過激に、より口汚く罵った。片言隻語であれ毛沢東の一言は恰も新興宗教教祖の「お筆先」と化し、知識人は「筆杆子(ことばの密告者)」として思想警察のエージェントの勤めを果たし、昨日までの仲間を当局に売り渡し、毛沢東の権威を神秘的に高め、絶対無謬性を称揚した。まさに文革の悲劇は、すでに55年の胡風事件に潜んでいたと考えられる。
このように55年は、後に猛威を振るう毛沢東式強権政治が始動した年でもあった。
翌56年になると、毛沢東の中国は長く続く疾風怒濤の時代に踏み出す。
国際的には、2月にソ連共産党第20回大会でフルシチョフがスターリン徹底批判の秘密報告を行った。一方、中国では5月の最高国務会議の席上で毛沢東は「百花斉放 百家争鳴」と題する講話を行い、文学芸術と科学研究分野においては独立思考と自由、加えて言論の自由を保持すること――文化・学術面での自由化路線――を提唱している。
この動きはソ連におけるスターリン批判を受けて始まった雪解けの影響に敏感に反応したものと言われるが、前年の胡風事件の影響もあり、「もの言えば唇寒し」を身に沁みて痛いほど分かっていただろうから、多くの知識人は毛沢東による自由化の呼び掛けに警戒感を隠さなかった。いわば毛沢東の“猫撫で声”に諸手を挙げて靡くことはなかった。
56年は2月のソ連におけるスターリン批判、5月の最高国務会議に次いで、9月には第8回共産党大会が9月に開かれている。
この大会における7つの重要文献――毛沢東の大会開幕挨拶、劉少奇の政治報告、政治報告に関する大会決議、共産党々章、鄧小平の党章改定報告、第二次五ヵ年計画(58年から62年)決議、周恩来の同決議報告――を収めた『中国共産党第八次全国代表大会文件』(人民出版社 1956年)を改めて読み返してみると、毛沢東の権力が確立した第7回共産党大会から11年が過ぎすぎて開かれた同大会の持つ意味は決して小さくはないと感ずる。
先ず指摘しておきたい点は、同大会で毛沢東を頂点に劉少奇、周恩来、朱徳、陳雲、鄧小平の序列からなる権力構造と文革までの党の基本路線(社会主義的改造の完成を確認し、生産力発展を目指す)が定められたことだろう。
最高幹部の陣容は一見して一枚岩の団結を誇示しているようだが、毛沢東は劉少奇に対し“含むところ”があったようでもある。すでに文革の火種は燻りだしていたのか。《QED》