――習近平少年の読書遍歴・・・“あの世代”を育てた書籍(習138)
厳重な沿岸警備の目を逃れ、波間に身を隠すように泳ぎだす兄弟の行く手には、台湾側の金門島が浮かんでいる。そこまで僅かに6キロ。中台両陣営が厳しく対立していた当時である。たった6キロ、されど6キロ。兄弟には、とてつもなく遠くに感じられただろう。
洋上を漂う著者は去り行く故郷の方角を振り返る。
「廈門の西の空は、まるで燃えさかってでもいるかのように真っ赤で、左手に連なる山並みは、さながら大蛇がのた打ちまわるようにうねうねと続いていた。すると、急に恐怖が襲ってきた。その時、僕ら2人は果てしない大海原に浮かぶチッポケな2個の粟粒でしかなかった」
1966年6月1日の朝である。いつものよう登校するが、校内の様子が変だ。「今日午前の授業はなく、9時から集会だ。新しい運動のためらしい」。じつは「僕ら世代の大陸青年は、動向が予測し難く変転極まりない社会で生きていた。だから政治的事件に対する適応力が養われている」。クラス別討論会で著者は逸早く「志願書と挑戦状を書き、学校の党支部と工作隊に提出し」、文革への参戦を勇躍と表明する。先んずれば人を制す、である。
いよいよ廈門第八中学でも文革が始まったのだ。
日頃から気に入らない教師たちを校舎の一角に閉じ込めリンチを加え、「反革命」の自白を逼る一方、軍人家庭の子女を中心として家捜し隊を組織し、標的と定めた家に送り込みラジオ、書籍、家計簿などを押収する。庭を1メートルも掘り返すかと思えば、壁を崩す。隠匿アヘンの摘発・押収は名目で、狙いはカネ目のもの。というのも、「建国以後、多くの家庭で貴金属や宝石を壁や庭に隠した」からである。
ここで敢えて『天讎』を離れ、なぜか舞台は1975年のプノンペンへ。
あの時、親米ロンノル軍を追撃し首都に乗り込んだポル・ポト軍は、華僑の商店や家屋の壁をぶち壊した。そこで当時の日本人記者はワケ知り顔で、「長期間ジャングルで戦っていたポル・ポト兵にとって都市生活は未体験だから、野蛮なままに振る舞っている」といった類のフェイク・ニュースを得々と報じ、多くの日本人もそう信じた。だがポル・ポト兵は野蛮でも無知でもない。彼らは華僑が財産を壁に埋め込んで隠していることを知っていたのだ。無知だったのはポル・ポト兵ではなく、じつは勉強不足の日本人記者だった。
おそらく、この種の悪癖は現在までも治癒されないままに続いているように思える。もちろん勉強不足を自覚できないままに“颯爽”と報じているメディアや、その尻馬に乗ってゴ高説を撒き散らしている専門家も同類だが・・・おっと忘れてはいけないのは外交通を口にする政治家だが。
再び『天讎』に戻る。そこで廈門第八中学における文革である。
学内に派閥が生まれる。どの派閥も「ワレラこそ真の毛沢東派だ」と名乗りはするが、所詮は父親の社会的立場を擁護し家族を守るためであった。
著者たちが学内を制圧し紅衛兵を選任する権限を持つや、生徒の多くから小刀やサングラスが贈られ、街の食堂に招待されはじめる。テイのいい賄賂だ。誰もが紅衛兵になりたがったのだ。やはり文革だろうが賄賂と言う「旧い文化」は不滅だった・・・ヤレヤレ。
文革の進展と共に紅衛兵運動は過激さを増し、社会秩序は崩壊へ向う。街角に売春婦が立ち、紅衛兵になりすましたゴロツキは強盗やかっぱらいのし放題。これを革命無罪・造反有理(有利?)と言うなら、デタラメが過ぎる。文革とは、まるで弱肉強食の世界だ。
66年12月、著者は廈門第八中学紅衛兵組織指導者として上京し、天安門広場での百万人紅衛兵集会に参加し、「毛主席万歳」の熱狂のなかで感激に震えながら毛沢東を目にする。彼らの合言葉は「他省の紅衛兵に遅れをとるな」「ナメラレて堪るかッ」であった。《QED》