――習近平少年の読書遍歴・・・“あの世代”を育てた書籍(習134)
さすがに文革、そう文化(=生き方)の大革命である。当時、政治はもちろんのこと、人間生活の隅から隅までが文革式に“再定義”されていった。その一端を『現代漢語修辞知識』(湖北人民出版社 4月)が物語ってくれる。
毛沢東は「人が1人生まれれば、口は1つで手は2本増える」と説く。生産(手)は消費(口)に2倍するから、膨大な人口は労働力であり国力の源であるとの考えを貫き、産児制限を断固として認めようとしなかった。また「真っ白い紙には、どんな絵でも描ける」と語り、貧しい中国を真っ白な紙になぞらえ、中国は貧しいがゆえに前例や因習に囚われることなく自由闊達な政策を推し進め、野心的な国づくりができることを強調していた。
さらに直接名指しすることを避けて「中国のフルシチョフ」と婉曲に表現しながら、紅衛兵を使って真綿で首を絞めるようにして最大の政敵と見据えた劉少奇を抹殺してしまう。
こうみてくると、毛沢東の主張は比喩を巧みに使って真実を包み隠す一方で、誰をも錯覚に陥らせてしまう。まさに幻術だ。かくて国を挙げて毛沢東の振る旗に合わせて狂奔し始め、我先に猪突猛進するわけだが、結果として大いなる災禍と悲劇をもたらしたことは歴史が教えているところ。とどのつまり天にツバしたのは誰なのか、である。
口と手の喩で政治では押さえ難い人口爆発を誘発させ、膨大な人口圧力が政治を翻弄してしまった。白い紙が現実無視の大躍進政策を正当化したことから、4000万人前後ともいわれる餓死者を生むに至った。中国のフルシチョフの喩で人民は狂喜乱舞して文革の熱狂の坩堝に身を投じ、かくて国民と国家とが大打撃を被る。自業自得か、“無知の涙”か。
60年代半ばから10年ほどの間、国政の混乱は極に達し、生産は停滞し、社会は混乱のまま。「大後退の10年」に終わった。だから毛沢東の言い分は、一種の詐術でもあったろう。
政治闘争のための巨大なエネルギーを生み出し、あるいは自らの政治的主張に正当性を付与させ大きな政治運動を起させるためには、生活環境も考えも異なる膨大な人民を掌に載せて弄び、彼らを思うがままに操り動かさなければならない。そのためには小難しいリクツは邪魔でしかないのだ。
極く少数の選ばれた階層しか理解できないような高等・精緻な議論は、やはり百害あって一利なし。社会の最底辺の住人ですら疑問など持つことなく心にストンと落ちてゆく“道理”が、なによりも必要なのである。
だから、欧米のことばに較べ非論理的だといるといわれている中国語にとって、自らの主張を相手に分からせるためには、やはり修辞こそが重要な武器となるのだろう。
華中師範学院中文系現代漢語教研組なる長ったらしい名前の組織を編著者とする本書は修辞を「なによりもことばを調整し修飾ことである」と規定し、豊富な用例を挙げて、相手を説得し、相手を納得させるコツを“文革的”に伝授してくれる。たとえば、]
■明喩:共産党は高い空に耀く太陽のようだ。
■暗喩:1959年の叛乱制圧以後、チベットで民主革命が実行されたことで、我われはやっと、初めて党の陽光をみることができた。
■借喩:人民にとっての永劫に続く幸福の泉を掘り当てるため、千年の永きに渡って人民を縛りつけてきた鉄鎖を断固として断ち切らねばならない。
■反復:大海渡るには舵取りが必要だ。万物の成長には太陽が必要だ。革命が頼るのは毛沢東思想だ。・・・毛沢東思想は永遠に没することのない太陽である。
『現代漢語修辞知識』が毛沢東思想の絶対無謬性と文革の必然性を言語表現のうえから明らかに示そうと躍起になって筆を進めるほどに、中国語という言葉は他人を政治的に煽りまくるには実に効果的な道具であることを、愈々明らかにしてくれから不思議だ。《QED》