――「長い、長い一日が仲々終わらない」
平田敏夫『初年兵平田敏夫十九才の雲南ビルマ戦記』(宝梱包 2018年)
昭和19年2月10日、深い雪の朝だった。19歳の平田敏夫は、歓呼の声に送られて敦賀の部隊に入隊する。「この雄叫びが後の戦場で何度も自分を奮い立たせた。郷土愛、郷土の声援。敵兵と対してカッー頭に血が登った時、行軍でぶっ倒れそうになった時、背後で歓呼の渦がほむらして立ち、なんの、なんのと奮い立ったものです」。
戦況は急を告げる。初年兵教育は中断され、平田は「安兵団」の一員としてビルマへ。シンガポールに上陸するや、後続部隊を待たずにビルマ東北部経由で「急遽、雲南へ」。投入されたのは、重慶の?介石政権支援のために建設されたビルマ東北部から龍陵・騰越・拉孟を貫き昆明を経て重慶に続く援?ルートを遮断する作戦だった。
最前線の拉孟は「陸のガダルカナル」と形容されるほどの死戦だった。戦友の死体を前にたじろぐ平田に向かって、上官は「遺骨は歯と骨を切り取るんや」と叱咤する。歯と指の骨は飯盒に納めた。
昭和19年6月下旬を境にして「僥倖は逃げた」。平田にとって以後の戦いは、ひたすら食料調達と飯盒炊爨と敵の猛攻を避けることだった。山また山がどこまでもウネウネと続く雲南の大地を、ビルマ中部のマンダレーを目指して壊走する。その間も360度に眺望の広がる山々を前に「山登りの癖で私は眺望に酔いしれる」。とはいえシャン高原の山々は「越えても越えても限度がない」。
昭和20年8月22日、捕虜となってラングーン(現ヤンゴン)郊外のアーロン収容所に収容されたところで、平田にとっての大東亜戦争は幕を閉じた。
「兵隊は筋道たてて戦場を語ることができない。酷かった、酷かった」で終わってしまうと振り返る平田だが、「我が身に危険が迫ると逸早く民間人を残してラングンを飛び立つ。そんな人物が敗戦の最中、中将から大将に昇進して金ピカの襟章を誇示する」「女、子供を地獄に残して、モールメンの広い芝生のある白亜の建物、物資は豊富、豪奢な生活にひたる。戦争責任を問う。戦犯裁判とは連合軍がかけるものではなく、日本人が日本人にかけるべきものだろう」と、あの戦争における指揮系統上層のデタラメさに憤怒を隠さない。
昭和22年7月7日、平田を乗せた復員船は宇品港に投錨する。「内地の山々は、緑いっぱいで美しい。万感胸に迫る、帰ってきたのだ」。やがて故郷へ。平田は「村では仰山の人が戦死している。三人出征して三人共戦死した家もある。うちは三人共帰って来た。お前一人位は戦死して来てくれん事には、村の者に顔向けならん」と父に迎えられた。その言葉を聞いた平田も辛かったろう。だが、そう言わざるを得ない父親の心中は察するに余りあるなどという通俗的表現では推し量ることはできほどに苦しかったに違いない。
やがて平田は故郷を離れ京都へ向かう。ここから平田にとっての新しい戦争が始まった。「祖父が営んでいた木箱製造工場を引き継ぎ、現宝梱包株式会社の基礎を築き、77歳まで代表取締役を務めあげました」と、ご子息は綴る。
平田の後半生は、また戦友慰霊の旅でもあった。ある時、かつての中隊長から「中隊集合の葉書が来た」。「(生還した)全員が集合。福知山の旅館で抱き合った。話した、話した、話しまくって夜明けまで、朝食を食って、又昼まで、来年は敦賀でやろうなとなって別れた。その後、毎年やって、三十二回。今では私一人が生存者です」。寂寞しくも雄々しい。
その平田も2017年9月15日、多くの亡き戦友の許に旅立つ。94歳だった。職を辞してからの日課として書き溜めた戦争の記録が、ご遺族の手でまとめられ本書となった。
2012年春、平田さんと一緒に拉孟・龍陵・騰越を回った。こんな所まで兵士を送り込んだ戦争とはなんだったのか――考え続けることが責務だと、改めて痛感・・・合掌。《QED》