――「支那人は不可解の謎題也」・・・徳富(38)
徳富蘇峰『支那漫遊記』(民友社 大正七年)
「議論の爲の議論」であるから、当然のように実効は二の次、三の次ということになる。「實行と議論とは、全く別物視すれば」こそ、「彼等の議論が無責任にして、愈々出でて、愈々架空となり、放恣となり、収拾す可からざる所以也」。つまりヘリクツにヘリクツを重ね、さらにヘリクツで固めるのだ。それゆえに彼らは「極めて現實的國民」であると同時に「空想的國民」とも言えるのである。
そこで「所謂地獄の沙汰も金次第」とでもいうべき振る舞いから、「手輕き俗物の如し」と見受けられるが、じつは「其の高論崇議を事とし、何事にも鹿爪らしき文句を唱へ、理屈を?ね廻す」。そこで「彼等は如何にも慾得に無頓着なる、書生的の如し」とも見える。
だが、彼らは「一方より見れば、算盤的勘定高き大俗物」であり、「他方より見れば、箸にも棒にも掛からぬ卓上論客」なのだ。
彼らは実際と理想とを別のものと見ているわけではない。「一個の支那人は、即ち兩個の支那人」であって、「一個の支那は、兩個の支那」である。「此の如くして始めて、其の眞相を得る」ことができるのである。
――「支那に於ては、一切の法度、如何に精美に出て來りとするも、概ね徒法たるに過ぎず」に関しての付言を。
毎度お馴染みの林語堂は「民族としての中国人の偉大さ」について、中国人は「勧善懲悪の基本原則に基づき至高の法典を制定する力量を持つと同時に、自己の制定した法律や法廷を信じぬこともでき」る。「煩雑な礼節を制定する力量があると同時に、これを人生の一大ジョークとみなすこともできる」。「罪悪を糾弾する力量があると同時に、罪悪に対していささかも心を動かさず、何とも思わぬことすらできる」。「革命運動を起こす力量があると同時に、妥協精神に富み、以前反対していた体制に逆戻りすることもできる」。「官吏にたいする弾劾制度、行政管理制度、交通規則、図書閲覧規定など細則までよく完備した制度を作る力量があると同時に、一切の規則、条例、制度を破壊し、あるいは無視し、ごまかし、弄び、操ることもできる」と語っている(『中国=文化と思想』(林語堂 講談社学術文庫 1999年)。
■「(七六)支那人の伎倆」
「支那人の最も卓越した伎倆は」、「崇高、精美なる理想郷と、俗惡、醜拙なる現實界との間に跨」って、「毫も衝突、矛盾の失態を暴露せざる」点にある。そこで「理想郷のみを見る者は、勢ひ支那人を買被」る一方、「現實界のみを見る者は、勢ひ支那人を見縊」ってしまう。
世の所謂「支那通」を称する者は、「自から觀察の精透を誇りて、支那人の皮相は、前者にありとなし、其の眞相は、後者にありとなし」て、彼らを「一種の没理想的動物視する」が、これまた「見當違」というものだ。彼らは「決して、没理想人種」ではない。「唯彼等は、理想を理想と受用して、之を實踐せざるのみ」である。
じつは「支那人の理想は、其の現實の生活に、何等接觸する所なきも、之を彼等より除却」しようとするなら、「彼等は實に物足らぬ心地」がする。やはり「彼等に取りては、徹頭徹尾何處迄も、理想は唯だ理想」であり、「現實は唯だ現實也」。やはり理想と現実は「恰も兩輪、双翼の如く、彼等に受用せられつゝある」わけだ。
――毛沢東の「自力更生」は理想で、�小平の「先富論(儲けたい奴はどんどん儲けろ)」が現実。幹部にとって「為人民服務」は理想で、権力乱用・不正蓄財が現実。理想と現実は「双翼の如く」に絡まり合い肥大化する。謹厳実直はバカ・無能の代名詞となる。《QED》