――「支那人は不可解の謎題也」・・・徳富(31)徳富蘇峰『支那漫遊記』(民友社 大正七年)

【知道中国 1806回】                      一八・十・仲九

――「支那人は不可解の謎題也」・・・徳富(31)

徳富蘇峰『支那漫遊記』(民友社 大正七年)

当時の日本における支那認識の実態と時代の風潮に関しての総合的評価を下すのは別の機会に譲ることとするが、徳富の考えから判断するかぎり、やはり視野狭窄の誹りは免れないだろう。現在にも通じることだが、両国関係を両国関係から判断する限り、ニッチモサッチモいかない雪隠詰め状況から抜け出すことはできないと強く思う。

■「(五一)新學の流行」

「近頃は、支那にも新學流行し、權利思想をのみ鼓吹し、道義の念、地を拂はんとす」る勢いだ。この動きが「看過す可き事なる乎」どうかは不明だが、「權利思想の鼓吹は、紛れもなき事實」といえる。

そもそも「支那には家族ありて、國家なし。國家對個人の關係は、單に之を權力關係と云ふ」のみであり、「個人が國家に對して、納税の義務あるは、義務と云はんよりも、弱者たるが故に、強者に向て、犠牲を拂ふ可く、餘儀なくせしむるのみ」。つまり支那における納税は、いわば一種の“みかじめ料”ということになる。だから政府が弱体化すれば、弱い政府ではなく他の強者に庇護を求めて税金、つまり“みかじめ料”を差し出すわけだ。

「支那人に、忠君愛國の心なしと云ふも、支那に於ては、本來國家を認めず、君主を認めざれば、斯る心の出で來る可き樣」があるわけがない。

■「(五二)政治屋の看板」

たしかに古くから孔子が尊ばれ儒教が広まってはいるが、「所謂る孔子の敎旨は、支那人の門前を、素通りしたる迄にして、實際の生活とは殆んど没交渉」、つまり無関係である。「今日道義地を拂へりと云ふ」が、「支那の歷史に於て、何の世、何の代か、果して道義が支那の社會を支配したる乎」。道義が支配したことなどありはしない。

「支那人は本來家長以外に、我が頭を壓」する者を好まないものだ。「彼等が賢君、明主」に従うのは、「逆主、暗君」よりマシであるからに過ぎない。むしろ「彼等の本意は、賢主、名君よりも、寧ろ無主、無君にあり」である。

「孔夫子は、支那人に取りては、餘りに規帳面」であり「餘りに組織的」である。つまり古来、「孔夫子は、陽尊陰排せられ、隨處に文廟宏大なるも、其の繁盛は、却て關帝廟や、娘々廟の什が一だにも及ば」ない。

「惟ふに儒敎主義の流行したるは、歷代の治者が、治具として、儒敎を利用したるが爲め」ということだ。「歷代の治者が、其の治術を襲うたるに拘らず、態と儒敎を以て、之を上塗りしたるのみ」である。とどのつまり「孔夫子は、歷代治者の商標となり了りぬ」。その様は「宛も達磨が煙草屋の看板の如く、孔子も政治屋の看板となり了りぬ」。

■「(五三)新學は則ち舊學のみ」

西洋由来の「新學」が流行っているようだが、「其の實は舊學」でしかない。いわば「數千年來、支那人を支配しつゝある、地下の暗流が、此頃に至りて、地上に露出」したに過ぎない。じつは「個人主義の極致は老荘にあり、權力主義の極致は、商鞅、韓非にあり」。だから「吾人は所謂、新學の新なる所以を知らざる也」。

古来、王道政治とはいうものの、その実態は「覇道にして、其の外形を王道にした」に過ぎず、理想的な政権移譲の形と伝えられる「禪讓の如きも、後世の文飾にして、其實は體裁の善き」権力奪取でしかない。いわば王道にせよ禅譲にせよ、血腥い権力闘争における勝者による誤魔化しということだ。「權力崇拝、權力即正義の觀念は、支那の廿四朝(=歴代正統王朝)を一貫したる、一大動力」ということ。「憐れむ可し大聖孔子の敎旨も、奸雄が天下の人心を籠絡する、一種の假面以上の、効能あらざりしことを」。《QED》


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