――「支那人は不可解の謎題也」・・・徳富(16)徳富蘇峰『支那漫遊記』(民友社 大正七年)

【知道中国 1791回】                       一八・九・仲九

――「支那人は不可解の謎題也」・・・徳富(16)

徳富蘇峰『支那漫遊記』(民友社 大正七年)

 とはいえ「場所によりては隨分支那流の無頓着、不親切、抛擲主義を見たることなきにあらず」。さはされど、「多少にても、改善の兆の認む可きもの」がある。かくして「予は支那の變化を見るにつけても、日本の進歩の、甚だ緩慢なるを慚悔せざるを得ず」。

 ■「(六)日本�師の退去と日本語の驅逐」

じつは徳富は前回の旅行の際、北京のみならず地方都市でも教鞭を執っていた「若干の日本人�師」の案内によって「有�にして、興味饒き觀察を遂げ得たりしことを記憶せり」。だが今回は違った。官吏、会社員、「支那の税關、若しくは鹽務所に奉職」する者はいるが、「日本人の�師は、絶無にあらざるも殆ど之を見出すに苦まり」。

旅先で日本人教師を見掛けないということは、「支那人が日本人�師を必要とせざるに到りた」からであり、それを「支那人の一の進歩と、見做す」こともできる。

 だが、もし「日本人�師の退去と同時に、日本語は、殆んど支那の�育界より、?逐せられつゝあ」るならば、やはり由々しき問題だ。日本人教師の退去と日本語教育の退潮の間には必ずしも関係はなさそうだが、「事實は事實也」。一般に「支那に於ては、英語、若しくは獨逸語は、必要語として、場所によりては、殆んど強制的に�授せられつゝあるに拘らず。日本語に至りては、殆んど之を眼中に措かざるものに似たり。而して英米人、獨逸人等は、自から率先して、支那人の�育事業に努力しつゝあるに拘らず、我が官民を擧げて、唯滿鐵の滿洲に於ける施設を除けば、何人も關心せざるものゝ如し」。将来を考えるなら憂慮せざるをえない。どうやら日本では官民ともに外国における日本語教育の持つ戦略性に昔も今も――ということは将来に亘っても――余り関心がないようだ。

 ■「(七)同文書院の効果」

徳富が2回目の旅行をした大正6年は「如何なるめ運り合せの歳にや、日本より支那へ巡禮したる者、近來未曾有とも云ふ可き數に上」たらしい。多くの「支那漫遊客の最も愉快の一は」、「支那にある日本人中に、支那語を解する者多きが如く、支那人中に、日本語を解する者少からざれば也」。

 主な役所、主な官吏はもとより、徳富が面談を希望するような人物なら誰でも、必ず身辺に「一名乃至數名の、日本語に堪能なる支那人なきはなし」。僻遠の地にあっても、片言の日本語を話せる留学生上がりの官吏がいる。「日本人にしても、支那語に通ずる人士」は少なくない。その柱は荒尾精が上海に創立した東亜同文書院卒業生であり、「同文書院が、如何に多大の貢献をなし、且つ爲しつゝあるかを、特筆せざらん」。であればこそ同文書院の拡大すべきだ。

 「凡そ�育の上に於て、此の如き的面の効果を収め得るものは、他に比類罕なる可し」と、ベタ誉めである。

 ■「(八)日本語の閑却乎日本の閑却乎」

 これまで「支那の朝野を擧げて」「日本語を解する者多きは」、両国朝野の長年の努力の結果だ。だが、「日本�師の退去と日本語の驅逐」という「現時の趨勢にて推し行かば、今より十年ならずして、支那人中に、日本語を解する者は、或は今日の半數に減ずるやも、未だ知る可らず」。

それというのも「今や支那を擧げて留學をすれば、米國に赴き、外國語を學べば、英語を學ぶの情態なれば也」。このまま手を拱いているならば「支那に於ける日本語は、或は地を拂ふに到らんやも」知れない。どうやら「支那人が、日本語を閑却しつゝあるは、日本語を閑却したりと云はんよりも、寧ろ日本を閑却したるにあらざるなき乎」。《QED》


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