――「支那人は不可解の謎題也」・・・徳富(10)徳富蘇峰『支那漫遊記』(民友社 大正七年)

【知道中国 1785回】                       一八・九・初七

――「支那人は不可解の謎題也」・・・徳富(10)

徳富蘇峰『支那漫遊記』(民友社 大正七年)

 客観的に考えるなら、親日と反日はコインの裏表であるように思う。歴史的に、あるいは現実的に考えて見るならば、親日だからといって反中、あるいは売国ではないだろう。たとえば日中戦争のなかで?介石に反旗を翻し敢えて日本との「同生共死」の道を選んだ汪精衛にしても、反?介石であり反毛沢東ではあっても、親日の向こう側に“在るべき中国”への熱い思いが秘められていたはずだ。むしろ日本との「同生共死」の道を貫くことこそが民族にとっての本来の姿であるとの信念が、彼の行動を支えていたに違いない。彼の信念からすれば、国民党も共産党も共に民族の敵であり反中分子であっただろう。

 やはり国際政治を親日、反日を基準に即断することは愚というしかない。

 閑話休題。

漢口を離れた徳富は長江を下り九江から南昌へ。名勝の廬山に登り、「長江の激浪」を体験する。蕪湖から南京へ。秦淮の画舫を楽しみ、清凉山の遊び、金山寺や甘露寺を訪れる。淡烟に煙る揚州で一日を過ごし、やがて上海へ。

 上海では中国人が著した日本論の白眉とされる『日本論』を著した戴天仇と面談する。どのような会話が交わされたのか。大いに知りたいところではあるが、残念ながら徳富は一切言及していない。ただ「戴氏の日本語に到りては、天下一品、日本人も恐らくは三舎を避く可し」と。

 上海名物の競馬場に向ったが、競馬を見るたけではなく、「競馬を見る人を見んが爲め」だった。「競馬は露骨に云へば、一種の賭博」だ。「競馬場は黄海の賭博場」だ。賭博にかけて「英人と、支那人とは、共通嗜好を有す」が、「英人專ら馬を以て具となし、支馴人專牌を以て具と爲すのみ」。

 「夜は日本人倶樂部に於て日支記者の晩餐會あり」。旧知の日本人記者が「會主として支那語にて、開會の辭を演じた」。そこで徳富は「日人支那語を習ひ、支那人日語を學び、其れの日常の交際、應接に於て、通譯を用ひず、互ひに自他の國語を以てせば、情意疎通に於て、頗る便宜ならむ」と考えた。「支那に於ける商戰、社交戰、勢力戰に於て最上の利器」は支那語であればこそ、「予は日本に於ける青年諸君が、切に此點に留意せんことを望む」とした。

 ところが、である。徳富の挨拶に次いで立った「支那側の一人」の記者が起立して「滔々と支那語の演説を始め、一節了る毎に、又た滔々と日本語して、自から通譯」し、「一場の喝采を博した」のである。「日人支那語を習ひ、支那人日語を學」ぶべしという徳富の「希望を實現する者」を眼前にして、「支那人の語學に於ける、天才に庶幾し、日本人遠く之に及ば」ないことを改めて思い知る。「日本人が自から語學に拙なるを以て、一種の誇りなすは、大なる心得違也」と慨歎し、一転して「今や英人は遲蒔ながら、支那各地に於て、支那語研究の學校を設け。苟も各會社に於て、支那語に通ずる者は、特別の手當金を與ふることとなせり」とイギリスの例を紹介しつつ、「我が國民たるもの、豈に猛省せずして可ならん哉」と結ぶ。「支那各地に於て、支那語研究の學校を設け」る英国に対し、日本は上海の東亜同文書院のみ。確かに「我が國民たるもの、豈に猛省せずして可ならん哉」である。

 上海から杭州に向い西湖に遊ぶ。

 「西湖のみならず、道路の改善せられたるは、支那旅行中隨處皆是にして、支那名物の一なる惡道路は、今や殆んど其の跡を失はんとす」。どうやら徳富は旅行中、「支那名物の一なる惡道路」を見ることはなかったようだ。そこで「吾人は翻つて、之を我が日本の道路に比して、自ら先進國たるを誇るの、頗る鐵面皮なると思」ったそうである。《QED》


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