――「支那人は不可解の謎題也」・・・徳富(5)
徳富蘇峰『支那漫遊記』(民友社 大正七年)
徳富は、国際政治の上からも、極東における列強角逐状況においても、はたまた国内状況のうえからも、極めて微妙な時期に、微妙な場所を歩いたことになる。
ハルピンを発った徳富は長春に取って返す。長春駅頭の風景を、「停車場の提灯山の如く、叫聲雷の如し」。そはなんぞ。「支那人の宿引き」だった。「例によりて支那人の仰山なる、驚く可き也」。
次いで長春から吉長鉄道で東に向い吉林へ。建設に当たっては「資金の半は、滿鐵より出」ているだけではなく、「近頃其の經營の、滿鐵の手に委せらる可し」とのことだから、全般に日本の色が出ている。「東清鐵道に比すれば、車室も比較的清潔也、係員も丁寧也、(中略)車内にて茶を出し、温湯にて濕したる手拭を出し、何となく支那茶館に赴きたる風情あり」。
僅かに2時間滞在した吉林に就いて、徳富は考える。「若し我が北鮮の清津より、會寧に達する鐵道成就し、更らに吉會線布設の日に至り、而して敦賀清津間の、日本海定期航路出で來らば、日本と吉林の接近は、意想外の効果を來たさむ」。吉會線の建設は軍事的見地からだけではなく、「經濟的、拓殖的見地に於て、更らに其の大なる理由あるを、知らざる可からず」。因みに清津と會寧を結ぶ清會線は徳富が旅行した翌年には完成している。
吉林から長春に取って返す。
「長春は即今、南滿の極北盡頭也。即ち日本勢力範圍のそれ也。之を咫尺相距る、露國の寛城子に比較すれば、一は生氣淋漓たり、他は衰殘荒廢、目も當てられぬ容態也」。旭日の日本に対するに落剝のロシア帝国であり、混乱のなかの革命ロシアといったところか。
地政学のうえから考えて、南北滿洲からシベリアに至る広大な地域を「四通八達の要衝」であり、「地味豐沃」で農産物は豊富である「長春は日、支、露三國の交差點なるが爲め、貨幣も一層複雜」だ。流通する紙幣・貨幣の種類が多く、交換レートも複雑極まりない。「されば長春に於ては、通貨も亦た一種の貨物として、其の取引を必要とする」のだ。そこで徳富は「愈々滿洲幣制の統一の急務を、認めざるを得ず」ということになる。
12月2日、長春を発ち南下する。大連駅頭で待っていたのは真宗大谷派を率いる大谷光瑞だった。体調を崩していた徳富は10月7日に動き出し、中村関東州都督、国沢満鉄理事長、樺山満鉄理事などと面談しているが、国沢理事長との面談の席で「昨日天津より汽船にて、當地に來着したる」釋宗演と再会した。
大連を「露人の計企を繼紹したりとするも、之を大成したるは我が大和民族の手腕也」と見做し、「我が大和民族の手腕」を発揮して「第三埠頭を築造中」であり、満洲大豆を主な要素とする盛況ぶりを讃える。大連周辺の景勝地を廻った後に向った旅順に就いて「要するに旅順の今日は、軍港としても苟も我が勢力の滿洲に存せん限りは、殆んど大なる必要を認めざる可し」と。
満洲経営に就いて、「從來十中の九分九厘迄が、殆んど滿鐵」によって賄われていると見做す徳富は、満鉄に対し「今更稱賛の辭を費す丈が野暮也。蛇足也、贅辯也」といいながらも、「今ま世間の噂一二を紹介す」るという形を取って敢えて注文を付ける。
「(第一)餘りに消極主義に偏し、社員の人氣全く沮喪せり。(第二)幹部に中心人物なく、全く無頭動物也。(第三)上に厚く、下に薄し、故に有爲の社員は逃げ出し、又た新たに來る有爲の人物なし。(第四)毎に政變の影響を被る故に、不安の念多し」。
ここにいう「政變」は東京の中央政経における政変を指すことは敢えて言うまでもないだろう。「以上は僅に其一端のみ」とはいうものの、問題山積は否定し難かった。《QED》