――「支那人に代わって支那のために考えた・・・」――内藤(34)内藤湖南『支那論』(文藝春秋 2013年)

【知道中国 1733回】                       一八・五・仲九

――「支那人に代わって支那のために考えた・・・」――内藤(34)

内藤湖南『支那論』(文藝春秋 2013年)

官に見殺しにされて堪るかと「仕方なしに地方で義勇兵を募り、それから自分の郷里を護る」。つまり「人民が各地方を防禦する」のである。

「つまるところ近来の支那は大きな一つの国とはいうけれども、小さい地方自治団体が一つ一つの区画を成しておって、それだけが生命あり、体統ある団体である」。ここでいう「地方自治体」は現代日本のように人事面から財政面まで実質的に東京の中央政府に牛耳られた地方自治体ではなく、文字通り地域住民による民間版の自治組織である。つまり草民は自分たちの地方における自治体の内側で完結した日常を送っているわけで、中央政府は自治体の内側で日常を送る1人1にまで権力を及ぼすことはできない。つまり、この自治体に対して「何らの利害の観念ももたないところの知県以上の幾階級かの官吏が、税を取るために入れ代わり立ち代わり来ておるというに過ぎない」。

これを要するに、知県を最末端とする中央権力にとって自治体は徴税のための対象でしかなく、自治体からすれば中央政府の定める税額を上納しさえすればそれでいいわけで、「中央政府に対してはほとんど服従の考えは無い」。混乱が続く社会であるだけに、自治体は「必ずしも現在の主権者にばかり服従しておるものではない」。

このような「支那の幾百年来の政治上の惰力」に由る中央政府対地方自治体の関係こそ、広大な領域、厖大な人口を中国という名の下で統合するうえで出来上がった最も安上がりで簡便な制度ということになる。だから中華民国が「これを一時に変更するということは」事実上不可能だ。「教育も進歩し、愛国心も殖え、従来のごとく君主を頭に戴かずしても、自分の国に対する義務を十分に弁えるような考えが、人民の間に行き渡らなければ、とうてい共和国としての真の統一事業は出来ない」。

加えて「江蘇、浙江などのような非常に文化の進歩した地方、それから財力の豊富な地方もあれば、辺徼の雲南、貴州、広西とか、吉林、黒龍江とかいうような文化の度の進まない地方もある」ように、全土は平均的ではない。であればこそ全土を画一的に治めることは困難だろう。

かくして内藤は、地方制度から見た内治問題の改革は容易ではないと結論付ける。それというのも、「人民が自ら支那の国民であるということを自覚」せず、「強い愛国心を生じない」という「支那の民政情の弊害が除かれ」ず、「私心を去って国を維持するという考えが十分に起」っていないからだ。「要するに今日の支那の内治の問題は、その当局者なり、人民なりが国に対する義務を感ずる道徳の問題であって、小さい行政上の制度変更や何かのような末の問題ではない」ということになる。

「支那が目下最も困難を感じておるのは財政の問題である」と、内藤は「内治問題の二 財政」に議論を進める。

清末のみならず、中華民国になっても国庫歳入の半分以上を外国からの借金に頼る始末だ。それというのも豊かな天然資源を狙って諸外国は金を貸し込む。「この借金の出来るのがすなわち今日の支那にとっての一つの不幸で、清朝の末年からして既に外国が競争して金を貸し附けようとする傾きがあって、今日袁世凱政府になっても、この風が止まない」。加えるに「もし袁世凱が威力を以て統一して、地方の兵力を全く無くしてしまえば」、地方の兵力を養う「莫大な費用を省くことが出来るのであるけれども」、各地兵力との妥協によって成り立った政権である以上、彼らの要求のままに外国からの独自な借り入れを許さざるを得ない。そこで「今以て支那に金を貸す競争が止まないのである」。つまり袁世凱の中華民国は財政的には外国の支配下にあり、国家の態をなしていないことになる。《QED》


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