――「支那人に代わって支那のために考えた・・・」――内藤(9)
内藤湖南『支那論』(文藝春秋 2013年)
革命派の理論的支柱で当時における最高の古典学者だった章炳麟が説く中華民国は「漢代の郡県であった所を境界として論究する」から、漢に含まれていた朝鮮や安南も中華民国の国土に組み込まれてしまう。そこで「中華民国というものを承認するということは、幾らかこの中華民国が理想であった時代の主張も承認するという傾きになる」。つまり「中華民国が今日のままで承認を求めるとすれば、この章炳麟の議論は、単に一個の学者の理想であって、今日の中華民国とは何の関係も無いものであるということを明らかに宣言すべきである」。そうでないなら中華民国承認は朝鮮や安南を中華民国領と認めることになる。
にもかかわらず、中華民国の側は「この章炳麟の議論は、単に一個の学者の理想」でしかなく国家の方針とは異なるなどとは明言していない。ということは、常識的に考えるなら中華民国の主張する領土は章炳麟の考えの延長線上にあるということだろう。ならば日本としては、「つまり中華民国というものの理想と言おうか、あるいは主義と言おうか、そういう点から見て軽々しく承認を与えるということは慎まねばならぬ」。それというのも相手が隣国であるだけに、国家承認という問題は我が国の将来にも大きく関係してくる。やはり承認の時期と中華民国の主張とに十二分に注意を払う必要があるということだろう。
ここで歴史を振り返ってみると、どうやら日本では政府も民間も一面では堪え性がないという欠陥を持つように思える。
たとえば日韓慰安婦問題にしても、理不尽にも粘りに粘り、常套的に前言を翻す相手に対し、これが「最後の最後だ」「不可逆的だ」などと公言しながら手を打つのはいい。だが、相手はまたまた“ちゃぶ台返し”である。そこで「ゴールを動かすな」と抗議するが、最初から自分の都合でゴールを動かすことを信条とする相手に対し、「まあ、仕方がないか」と応じてしまう。北方領土をめぐる日ソ・日ロ交渉、東シナ海の海底資源に関する日中交渉などなど。おそらく昭和16年12月8日に収斂して行く日米交渉にしても、日本側の事情は似通ったものではなかったか。
話を内藤に戻す。
内藤は「日本の政府の方針の善悪はここに何も論じないけれど」と断わった後に「どうかすると一方に極端に走っておるものが、またその反対の方面に走ることがある」と疑義を示しながら、「初め支那の政体にまで干渉しようというような考えをもっておったものが、一旦手を焼くとなるとどこまでの無干渉であ」ると、半ば諦め気味な論調に転じた。
その一例として内藤は「日本の貿易上の利害に非常に大関係のある」満洲に「革命党の軍隊が上陸して戦争をおっ始めても、それさえ懐ろ手して何もしないという非干渉政策」を挙げ、「無干渉」な日本政府の振る舞いを難詰する。かくして中華民国という「新共和国の承認などに対しても、むやみに非干渉政策に傾いたまま、注意すべき種々の重大なることを全く見遁してしまうという虞れがないのでもない」と、注意を喚起した。
共産党政権――その典型として「中華民族の偉大な復興」を掲げる習近平政権はなおのこと、チベットであれ、モンゴルであれ、はたまたウイグルであれ17世紀末から18世紀末までの清朝盛時の最大版図を自らの本来の国土とし、経済力と軍事力を背景に「失地回復」の動きを見せる。こういった姿を、漢代の版図を中華民国の本来の領域と見做した章炳麟の考えに重ね合わせると、国土に対する漢族の“信仰”は近代社会における国土に対する世界の共通認識とは相容れないということだろう。
たまさかアブク銭を手にしたことから有頂天になり、国土に対する自らの“土俗信仰”を振り回すとは・・・恐れ入谷の鬼子母神。だが、やはり恐れてばかりはいられない。《QED》