――「支那人に代わって支那のために考えた・・・」――内藤(7)内藤湖南『支那論』(文藝春秋 2013年)

【知道中国 1700回】                       一八・二・初九

――「支那人に代わって支那のために考えた・・・」――内藤(7)

内藤湖南『支那論』(文藝春秋 2013年)

孫文らの武装蜂起が失敗を重ねていた当時、「東京におる留学生の思想なども頗る変化して、一時は百のうち九十人までは革命主義であったが、近頃では百中九十までは革命主義を離れ温和な改革説に傾いて来て、康有為、梁啓超一派の議論が勢力を得て」いる。だが武昌蜂起を機に状況が一変すると、はやり「温和な改革派というものは勢力を得にくい」。事態が過激に動き始めるや「温和な改革派」が総崩れになることは、我が明治維新やらロシア革命、さらには毛沢東革命の歴史を見ても明らかだ。そこで当時の事情に即して考えるなら、次に問題となるのが「朝廷の残喘を保持して、革命軍と妥協」を模索する袁世凱の道か、それとも一気に清朝を打ち倒そうとする革命派の動きか、ということになる。

革命軍が北京に攻め入ったなら、清朝当局に対し「要求するのは恐らく禁衛軍の解散」であり、その次が「政府の明け渡しということにな」り、そこで清朝側と革命派との間で講話が問題となる、というのが内藤の読みだ。

以下、清朝側に控える袁世凱を軸に、内藤の考えを整理して見ると、

�袁世凱は「機に乗ずる政治家としては無比の資格を持っておる」が、「すでに末路に瀕している」。だから「どうかすると袁に望みを属して、袁さえ出廬すれば、現状維持が出来るものと考えておった者が少なくない」が、それは誤りだ。

�袁世凱を軸に清朝側が団結すれば「南北分立が出来るかなどと考える者もあるらしい」が、そもそも歴代王朝の興亡・盛衰を振り返って見ても、中国の経済の中心は長江流域以南の南方にあり、そこを押さえない限り北方の政権は維持できない。つまり南北分立も「大謬見である」。つまり南方と切り離されたらな、北方の経済的自立は不可能である。であればこそ、ゆめゆめ「北方朝廷の援護支持など考えたり」してはならない。

この時点で内藤は、袁世凱は頼りにならないと判断していたわけだ。

この革命に「ドイツとかアメリカとかいうような国が最もあせって」いるようだが、「この革命の結果が一番我が日本に著しく影響すること」に「最も注意を要する」はずの「隣国たる我が邦」は焦っている風でもない。その背景を考えるに、日本政府が「確かな意見を懐いておっていかなる事変にでも応じ得られる態度がきまっておるためであるのか、それとも何の意味も無くただ事変を傍観しておるのであるか」は不明である。だが対応を誤るなら「日本の将来にとって非常に悪い影響を来すこと」を考えておかなければならない。

「非常に悪い影響」の一例として、内藤は新聞で報じられている「北京などで日本が満洲朝廷を満洲に擁立して一運動を試みるというような奇怪な説」を挙げる。「もちろん日本の当局者としては、そんな愚かな考えを持っておるようなことはなかろう」と断わってはいるが、革命=混乱という機会に乗じて日本が「支那に関する色々な未決な問題をこの際に一挙に解決しようと」して、「亡滅に瀕した朝廷を援助」し、「これを日本の勢力範囲たる地方に一主権者として迎えて置いて、新立国の深い猜疑を招いたり、また結局はその主権を我が邦の手で奪わねばならぬようなまずいはめに陥らぬよう、あらかじめ熟慮して置かねばならぬと思う」とした。

辛亥革命によって生まれた中華民国と交代し、清朝(=満洲朝廷)が幕を閉じたのが1912年初頭。次いで「日本が満洲朝廷を満洲に擁立し」、溥儀を執政に据えて満州国が「新立国」されたのが1932年3月。この20年の間に、日本は「まずいはめに陥らぬよう、あらかじめ熟慮して置」いたのだろうか。「支那に関する色々な未決な問題をこの際に一挙に解決」することのみに焦り過ぎはしなかったか。内藤の予言が気になるところではある。《QED》

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