――「支那の國ほど近付いてあらの見ゆる國は無し」――關(9)關和知『西隣游記』(非売品 日清印刷 大正七年)

【知道中国 1825回】                      一八・十二・十

――「支那の國ほど近付いてあらの見ゆる國は無し」――關(9)

關和知『西隣游記』(非売品 日清印刷 大正七年)

 

なぜ日米の間で、ここまで差がついてしまったのか。アメリカは「義和團事件賠償金一千二百弗を支那に還附して之を�育資金と爲し」、留学生100人を受け入れ教育した。こうして「支那人の二國(日米)に對する感情の相異」が生まれてしまった。「今日に状勢を放置せば、支那に於ける日本語の勢力の次第に衰退すると同時に、英語の勢力倍々増大し、自然の結果、國際場裡に於ける日米の位置は遠からず一變するべきや明らかなり」。

アメリカは中国各地に高等教育機関を設け、「その秀俊なるものを抜擢して米國に送り、高等の學問研究に從事せしむ」。かくてアメリカの大学では「殆んど支那留學生を見ざる無しと聞く」。20年前には日本人留学生に向けられていた関心は冷めてしまい、いまや「米國上下の支那人�育」に移ってしまった。他国と違ってアメリカは「常に公正仁義の主張を持し、博愛慈善の方面に活動して、毫も領土若くは利權に對する野心なき態度」で接するが故に、「大いに支那人の信用を得、その歡心を得たる」のだ。

翻って日本をみるに、「政治的には高壓武斷主義を援け、眼前の利權獲得に營々たる外、何等高尚にして遠大なる經綸無く、然して社會的には常に支那人を輕侮して速成營利主義の�育を以て支那留學生に對する我日本の態度が、倍々以て支那人の反感と疑惑とを招」くばかりか、「日支親善の押賣りによりて愈々支那人を遠ざかりらしむる如き實状は上下の共に覺悟し反省すべき所ならずや」。

振り返ってみるなら、大正の時代に日本側が「日支親善の押賣り」したところ、「愈々支那人を遠ざかりらし」めてしまった。ところが北京に共産党政権が生まれて以降は「子々孫々までの日中友好」の押し売りを始める。そうなった時、その押し売りを日本人は唯々諾々と受け入れてしまった。いったい何故なんだろうか。戦争という大問題があるからか。大正の日本人の「押賣り」が下手なのか。共産党政権の宣伝工作が巧妙なのか。それとも日本人が歴史から教訓を学ばず、余りにもオヒトヨシに終始してからか。

さて關に戻る。じつは「日本の外交は今實に危機に瀕せり」と「覺悟し反省すべき」を口にする日本人が關らの前に現れたというのだが、それが「我が北京公使館有力者」だったというから開いた口が塞がらない。この「公使館有力者」もまた外交の危機を招いた当事者の1人であろうし、危機を回避すべく獅子奮迅の働きをすべき当事者だろうに。どうやら、この種の天に向かってツバするような所業が我が外交当局の“伝統芸”の1つ。つまりはオ役所特有のやっつけ仕事。それにしても昔も今も・・・情けない。いやバカバカしい話だ。本来の使命を他人事で済まそうとする無責任・・・外交官失格!即刻退場!

さて關だが北京では英字新聞の「北京カゼツト新聞の如きは一年三百六十日曾て一日と雖も排日的記事の掲載を怠りたること無く、筆を極めて對日反感情の鼓吹に力め居れり」。

同紙は「有名なる親米派の新聞にて、其發行紙數の如きも敢て多からざるは勿論なるも」、「その感化の及ぼす所決して輕視すべきに非ず」。これに対し「國民の思想上、感情上に對する外交的用意として我が對支外交は全く消極的なり、無能力なり、東亞大局の主人公たるべき帝國の現状實に如斯岌々乎としてそれ危い哉」。ここでもお役所仕事だ。

日本にとって最も手ごわい敵はアメリカであり、「将来支那に於ける米國の勢力今より想見すべし」との警告は勿論すぎるほどに勿論である。だが、北京政府部内に早稲田同窓生が多いというのなら、そのことを“素朴・単純”に悦び誇っているだけではなく、直ちに早稲田人脈を動かすのも一策だろう。

やはり日本は「将来支那に於ける米國の勢力」の影響力を見誤った(軽視した。等閑視した。全く気づかなかった)のか。その後の悲劇の淵源は、ここにもある。確かに。《QED》


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