――「支那の國ほど近付いてあらの見ゆる國は無し」――關(8)關和知『西隣游記』(非売品 日清印刷 大正七年)

【知道中国 1824回】                      一八・十二・初八

――「支那の國ほど近付いてあらの見ゆる國は無し」――關(8)

關和知『西隣游記』(非売品 日清印刷 大正七年)

 

いよいよ北京である。「往來は仲々に賑かなり、道路は概して能く修繕され、通りは之を我東京に比して敢えて遜色無し」。だが電車もなく馬車鉄道もない。一般には人力車だが、上流社会では馬車か自動車。だが規則なく銘々が勝手に動くから「雜沓不便察すべし」。こうなったのも「官府の情實各方面に對する内約、許可借款、交渉複雜錯綜せる」ことから処置に苦しみ、結果として規制することを放棄したからだ。かくして交通規則もまた法治ならぬ人治ということになるわけだ。

じつは繁華街の一角に「ケツトレル牌樓」と呼ばれる巨大な石造りの楼門があった。義和団事件で犠牲になった「獨逸公使ケツトレル男に對する一の謝罪紀念碑」である。そこには事件当時の清朝皇帝である光緒帝による謝罪の文が刻まれている。

「帝都の中央に這般國辱的記念碑を存置した異まず、之を異むも以て如何ともすべからず」。こんな恥さらしを何とも思わないのだから、「支那の運命」は推して知るべし。義和団事件は「支那國民の排外思想の發動としては蓋し掉尾の一大活劇」であり、「獨逸の強要暴壓惡む可」きであり「一大反抗を企て」るべきを、このテイタラクというのだから、「弱者の境遇に至つては又憫まざるを得ず」。かくて關の結論は、ダメな国はどこまでもダメ。

古来、「威儀を尊び外觀を重ずる支那に在りては、其の大官貴人に接するに於て定めて威風堂々たる、儀禮の煩瑣なるべし」と思い込んでいたが、「悉く平易淡泊、儀容を度外視して談笑」するばかり。これも「彼等の交際に巧に辭令に妙」なる所以かとは思うが、「少なくとも威嚴品格を装ふて虛勢を專にせんとする我官僚政治家に比すれば、彼等支那の官憲は案外に開化して進歩せり」。「北京に於てのみならず、各地に於て支那の名士に接したるも、何等の虛禮虛式無く、極めて寛ぎて愉快なる交際を爲すを得たるは」、やはり「注意すべき一現象」ではある。これまた彼らの得意とする“人たらし”のなせるワザか。

ところで当時の北京政府の重要人物をみると、「林長民(司法總長)陸宗輿(前駐日公使)江庸(司法次長)劉宗傑(國務院參議)姚、張等其他の諸君は早稲田同學の友」であり、また司法部は総長、次長に加え「大審院民事部長姚震等を始め、要部は全く早稲田出身者を以て充たせり」というから、早稲田出身者は一大勢力を形成していたことになる。かくして關は「早稲田の法科は本國に於て割合に振はざるに關はらず、支那に於ける司法部に早稲田の努力如斯を觀るは珍らしく且心地良し」と綴る。ご愛敬といったところだが、さてさて彼らも酒が入ると「都の西北、早稲田の森に~ッ」などと放歌高吟していたのか。

当時の「北京官場は勿論社會上に於ける日本留學生の努力は頗る盛なるもの」であり、段祺瑞政権の主要閣僚はおしなべて「日本仕込みの新知識」の持ち主だった。だが、「近來の日本の學問、日本の敎育に對する一般の傾向が漸く其の信用を薄らぎつゝあり、そは日本の敎育が餘りに速成にて内容の淺薄なるに心付きたる結果、殊に一方英、米、佛、獨等留學生の比較的修養あり、實力あることを認め來りたるが爲めなり」。

かくて「日本語よりも寧ろ英語を口にするもの多く、英語の勢力は遥に日本語の上に在り」。加えて日本留学が減少傾向にあるのに反し、「米國に向ふ留學生の數は年々増加」している。これは「対華21カ条要求」などの外交的環境に外交的環境に起因するのだろうが、一面では「我が上下の支那人敎育を閑却せるの失に歸」すことができる。「日支の親善を口先きに於て唱ふる」だけで、「二國間實際の意思の疎通を謀るべき言語の不通今日の如くしては日支親善の實」は上がらない。

別に「日支親善の實」があがらなくても構わないが、「日本の敎育が餘りに速成にて内容の淺薄なるに心付きたる結果」とは、何やら現在の姿に似ているようにも思える。《QED》


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