――「支那の國ほど近付いてあらの見ゆる國は無し」――關(2)
關和知『西隣游記』(非売品 日清印刷 大正七年)
「辭令の妙」に任せて、肅親王は一行を心地よく擽る。
昔から東洋には大義名分という東洋道徳がある。「日本は大義名分の國」であり「世界の大勢より達觀すれば、日支の提携は特に必要にして且つ急務」である。であればこそ「時機一度到らば日本は必ずやその東洋道德の根本義に基つき大義名分の下に支那を指導して以て二國の歷史的親交を鞏うし、列國競爭に對せざる可からず」。この発言を「堂々たる復辟派の大宣言」、つまり清朝再興派の「大宣言」と受け取った關は、「所謂東洋道德なるものは即ち君臣の大義にして、支那帝政の復興は大義の上より日本の援助を期待するの意思」を痛感し、ひたすら感激している。
大隈が「自愛」と「日支提携の爲め」の尽力を求めると、肅親王は「余學淺く德薄く以て大事に任ずるに足らず、幸に卿等の敎を待つこと切なり」と。やはり肅親王らは飽くまでも清朝復辟を目指す構えのようだ。
彼らの中には「清朝を復して支那皇帝とし、日本の天皇を亞細亞皇帝とし、支那皇帝は命を亞細亞皇帝に聽ことゝ爲さば、以て亞細亞大帝國を建造し、覇を世界に稱ふるを得べし」と、日本側に説く者もいたほどだった。
復辟問題に就いて關はこの辺りで筆を止めている。だが、ここで心に留めておきたいのは復辟を目指す宗社党のなかに清朝皇帝は「支那皇帝」となって我が天皇を「亞細亞皇帝」として戴き、「亞細亞大帝國を建造し、覇を世界に稱ふるを得べし」――満州国皇帝となった溥儀と天皇の間柄を彷彿させる関係――という考えの持ち主がいた点である。
満洲国建国に際し、飽くまでも清朝皇帝という地位に拘泥する溥儀の希望を受け入れず、日本側は強引に執政に据え、後に満洲皇帝とし、天皇の下に置いたといわれているが、「亞細亞皇帝」云々の話を知ると、どうもそうでもないらしい。
溥儀の弟である溥傑は自らの人生を回想した『溥傑自伝 「満州国」皇弟を生きて』(河出書房新社 1995年)に辛亥革命後、紫禁城内で皇帝一族の生活継続を許されていた当時の思いを、「私には清室を振興するに外援が絶対必要であるという考えが強くなった。(紫禁城内)の中にいながらも、将来どの国の援助に頼って帝制を回復するか、ということが」私の頭から一時も離れなかった」と綴っている。やはり清朝復活は一族の強い願いだった。
そこで溥儀・溥傑兄弟の父親に当たる醇親王載灃が「満州国皇帝に就くことに反対した」にもかかわらず、溥儀は日本側の誘いに応じ、満洲国執政から皇帝即位への道を選ぶ。満洲国皇帝即位後の振る舞いは、どうやら「清朝を復して支那皇帝とし、日本の天皇を亞細亞皇帝とし、支那皇帝は命を亞細亞皇帝に聽ことゝ爲」すとの考えに近かった。
昭和20年8月9日のソ連軍の侵攻から10日ほどした18日午前1時に行われた満洲国緊急参議府会議で満洲国解体と皇帝退位が決定する。退位式を、溥傑は次のように綴る。
「退位式は簡素で厳粛に執り行われた。皇帝溥儀は退位宣言を読み終えた後、参会者一人一人と静かに握手をしてひっそりと退場した。彼はもう平民になったのだ。溥儀は芝居がうまい。退位発表の時、自分から跪いて、/『自分の無能のため、日本の天皇に迷惑をおかけした。天皇に許しを請う』/といい、退場する時も側に立っている日本兵と抱擁して別れを告げたので、日本兵はみな感激の涙を流した。私は溥儀に反感を覚えた。ここまできて、どういう気持ちでこの醜態を演じたのか、と」。
「天皇を亞細亞皇帝」にとの提言から溥儀の「自分の無能のため、日本の天皇に迷惑をおかけした。天皇に許しを請う」との懺悔まで、その場限りの「辭令の妙」ということだろう。だから日本側は彼らの「辭令の妙」に弄ばれてはならない。厳重注意!!!《QED》