――「實に亡國に生まれたものは何んでも不幸である」――釋(1)釋宗演『燕雲楚水 楞伽道人手記』(東慶寺 大正七年)

【知道中国 1769回】                       一八・八・初二

――「實に亡國に生まれたものは何んでも不幸である」――釋(1)

釋宗演『燕雲楚水 楞伽道人手記』(東慶寺 大正七年)

 釋宗演は若狭小浜の産で明治を代表する禅僧で、安政6(=1859年)に生まれ大正8(=1919年)に没している。ということは、来年(1919年)は没後百年だ。幼名は常次郎で、号は浩岳、楞伽窟。明治4年に京都妙心寺で得度。11年には円覚寺の今川洪川の許に参じた。18年に慶應義塾に入り、21年にセイロンに渡り修業を重ねる。洪川の死を承け、25年に円覚寺管長に。26年にシカゴで開催された万国宗教者会議に日本仏教代表団の1員として参加。国内外を問わず禅宗の普及に尽力。弟子の1人に夏目漱石がいる。

 釋宗演は大正6(1917)年9月8日に大船を発し東海道線を西下し、翌朝9時に下関に着き、関釜連絡船で対馬海峡を越え、夜9時に釜山に上陸している。大邱、京城、平壌と朝鮮半島を縦断し鴨緑江を渡り安東へ。以後は安奉線で奉天へ。奉天からは京奉線で西南に降り山海関を越えて天津経緯で北京へ。万里の長城と明の十三陵を見物の後、北京から天津へ。天津から港のある太沽へ白河を下り、太沽からは渤海湾を渡り大連へ。折悪しく天津は水害に見舞われており、「白河両岸の人家田園、皆水に浸る。光景、頗る惨憺にして、冬期に窮民の困頓、思う可し」と記す。

大連からは再び船で南下し、山東半島を掠めて青島へ。青島からは西へ進み済南で津済線に乗り換え南下し徐州で下車。西蘭線で西行し洛陽まで。洛陽から鄭州に引き返し、京漢線で南下し、信陽経由で武漢三鎮へ。折折しも10月31日の天長節当日は漢口に滞在。「方に天長佳辰に値り、午前十時、總領事館邸に抵り聖影を虔拝」している。漢口で襄陽丸に乗船し長江を下り、九江、南京を経て鎮江で下船し、滬寧線で上海を経て杭州へ。杭州から上海に引き返し、東シナ海を横断して長崎経由で下関へ。下関で上陸し、列車で東上し11月25日、「八時、大船に抵り下車」。

 この間、各地で名刹を訪れ、日本人居留民に向けて講話を行なっているが、興味深いのが北京で当時の中華民国政府首脳陣――「民國の御大將馮国璋」、段祺瑞総理、梁啓超財政総長、汪大燮外交総長、曹汝霖交通総長、範源濂教育総長など――と面談していることだ。

 全文が漢文で綴られているが、やはり日本人の通例に同じく紋切り型の表現で面白くない。幸い『燕雲楚水 楞伽道人手記』には、付録として全体の3分の2ほどの分量を占める「隨行日記」が収められている。そこで読み進むのは、随行者である二條毅堂の記した「隨行日記」であることを予め断わっておく。

 ところで釋宗演は何が目的で旅に出たのか。それを『燕雲楚水 楞伽道人手記』の冒頭に置かれた徳富蘇峰の文章が示している。これまた日本式漢文で綴られているのでウンザリさせられるが、ともかくもガマンして読み下してみると、

 ――禹域(ちゅうごく)に出立するという宗演老師を、逗子の観瀾亭に訪れた。別れ際に、達磨は西からやって来て禹域に仏法を伝え、それが日本に流伝した。いまや「禹域の文華」は「糜爛の極」に達している。それというのも宗教が衰え、民の心が萎えてしまったからだ。そこで仏法を引っ提げて「四億の溺民を拯わんとす」――

どうやら仏教による「四億の溺民」が目的の旅たしい。じつは徳富も同じような考えから大陸行を思い立ったものの、病気のために釋宗演が先行することになる。その後、病も癒えて徳富も出立し、旅先の京城、大連、漢口、上海で釋宗演と顔を合わせている。次に読むことになる徳富の『支那漫遊記』(民友社 大正七年)は、その際の旅行記である。

「隨行日記」は「今釋宗演老師は飄然として東洋の兄弟國へ行脚せらるゝことになつた」と書き出されるが、国と国の間に「兄弟」の関係が成り立つわけはなかろうに。《QED》


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