――「實に亡國に生まれたものは何んでも不幸である」――釋(6)
釋宗演『燕雲楚水 楞伽道人手記』(東慶寺 大正七年)
大連を離れ渤海湾を南下して青島へ。青島から「山東線に依つて中部支那に深く入り込む」ことになる。「停車塲は何れも畑の中に獨逸式の建物で淋しく孤立している」。これら駅には「汚い乞食の樣な支那人」が溢れ、その中に「日本人の驛長や憲兵が混つて活動してゐるのがなんとなく氣強く思はれた」。
やがて驕に乗って始皇帝が頂上に立って天を祀ったことで知られる泰山に登る。
「岩谿の清冽な水の流れに添ふて驕は進む、兩側に松柏の並木が來たり石橋が來たりする、狹い景ではあるが支那趣味で滿ちてゐる」。すっかり「支那趣味」に浸っていると、「時々子供の乞食に襲?される」。「それが路傍の百姓の子で遽かに乞食に成る」。どは、どのようにして乞食になるのか。「母の指揮命令の下に突貫してくるのもある、五月蠅いのとひつこいので詩興がそがれる」。その母も「母の指揮命令の下に」、泰山遊山の客に「突貫」した。かくて親から子、子から孫、孫から曾孫、曾孫から玄孫と乞食稼業は伝承されたのか。
さて「一個は奥の谿谷に面した一室に陣取つて晝辨當」となった。じつは「茲は尼寺で若い尼が昔は澤山居て朝のお勤めに身が入らず、夜の怪しいお勤めに綿々密々であつたそうだ」。夜ごとの「綿々密々」のお勤めによって極楽弥陀の浄土の愉しみを堪能したということは、尼寺は廓であり、尼は女郎だった。いや廓を尼寺風に設え、女郎がコスプレで尼に扮したということか。もう廃れた風習だと思ったが、「今でも多少其の惡習があるとの事で、現に汚い尼が澁茶抔運んでヒョコヒョコ出て來た」そうな。
泰山を下りれば定番コースは孔子廟詣となる。
「殿堂を仰いで昔を思ふと色々の妄想が出る、後世の人に絶大の尊敬を受けてかくの如き立派な殿堂を建てさした孔子は實に偉い」。だが「其の裏面を推察すると多くの人民の膏血を絞つて、或は重税をかけ或は勞働を強制し、悲惨な苦痛を甜めさせた事が數限りなくあつたであらう」と。人民に痛苦を強いたことは「孔子の意に合致してゐようか」。
ここで一転して現実に戻る。「支那は孔子を始め聖賢人の輩出が引續きあつたにせよ、今の有樣はどうであらう、此の貴い精神は國民から抜け出てゐるのではなからうか、堂内で孔子の像も欠呻をやりだすだらう、實に亡國の状態は鐵をも腐らすと云ふが洵に恐ろしい事ではないか」。そうだ、そうだ、その通り。
ここまで来て國教もなにもあったものではないことに、少しは気づいたようだ。
旅は続き徐州へ。「ムクムクと舞ひ上る塵埃を吸」いながら徐州城内を見物する。「狹い汚い火事場塲の樣な騒ぎの中を無暗に行つたが、仲々苦しいものだ。彼等は毎日譯もなく樣々な事を繰返してこの塵埃の中に生活してゐる、實に哀れな不幸な人民である」。加えて「宿屋の前庭も通行人が素通りするから、各自の部屋には鍵をかける、全く油斷も隙もならない所であつた」。
夜寝ると「豚のいかにも苦しい悲鳴が前の往來から聞えて」くる。「實に可憐そうで堪らなかつた」。昼は昼で血潮に染まった豚を眼にした」。「支那人の殘性を恐しく思つた」。ところが残忍なのは人間だけはない。首を切られ苦しんでいる雄鷄に向って「他から雄鷄が飛出して頻りにその頭をこついでゐる」ではないか。「實に亡國に生まれたものは何んでも不幸である」そうな。
嵩山少林寺に詣でる。「初祖菴の凡ての建物は何れも極めて荒廢して修繕する事も出來ず全く手の附け樣もない程の慘状である」。その昔は「四圍山鬱々、一徑柏森々」と詩に謳われた周囲の山々は、「恐らくは後世人の濫伐に逢うて、平凡極まる殺風景の谿壑となり果てゝ仕舞つたのだらう」。「實に亡國に生まれたものは何んでも不幸である」のだ。《QED》