――「ポケット論語をストーブに焼べて・・・」(橘41)橘樸「中國人の國家觀念」(昭和2年/『橘樸著作集 第一巻』勁草書房 昭和41年)

【知道中国 2080回】                       二〇・五・念二

――「ポケット論語をストーブに焼べて・・・」(橘41)

橘樸「中國人の國家觀念」(昭和2年/『橘樸著作集 第一巻』勁草書房 昭和41年)

以前に綴ったような記憶もあるが、さて別の場所だっただろうか。それはそれとして行きがけの駄賃、である。お付き合い願いたい。

通り一遍の漢語(ちゅうごくご)ではなく正調の京片子(北京弁)を少しでも身につけたかっただけに、北京生まれの北京育ち、おまけに北京大学卒という先生は、まさにドンピシャ。願ったり叶ったり、であった。先生の喉から発せられる甲高い京片子は、想像以上に耳に心地よく響いたものだ。

雑談の際に惚れ惚れするような京片子で語られる先生の半生記は、日本で学んでいた“新中国”の姿とは全く違っていた。旧い文化は完全に否定されたと思っていたが、そうではなかった。庶民の多くは北京の下町に残る清末の風情の中で日々を過ごしていた。人民は平等で心豊かな生活を送っていると思い込んで(いや、正確には「思い込まされて」)いたが、どっこい、異常なまでの階級社会だった。今でも鮮烈に覚えておるのは、先生が通っていた頃の北京大学では共産党幹部子弟は優遇され、食堂も一般学生とは別だったそうだ。

もちろん先生は一般家庭の出身だから優遇されることはなかったが、それでも友人に幹部子弟がいたことで、時には幹部子弟専用の食堂で超豪華な食事に与かることもあった。彼らと一緒なら一般人立ち入り不可能な場所でも自由に見学出来たと話しながら、天安門の楼上に立つ若き日の写真を誇らし気に見せてくれたこともある。

さすがに北京を離れ香港に落ち着くまでの経緯については話してはくれなかったが、雑談の端々を繋ぎ合わせると、どうやら先生は60年代中頃に香港に出てきたようであった。

3年ほどの授業の後、先生は御主人の仕事の関係でカナダの東海岸の街に移り、そこの大学で中国文学を教えることになる。香港生活は10年ほど。あるいは先生にとっての香港は、カナダに渡るための一時滞在の場所だったのか。後に或る人を介して届いた手紙には、カナダでの日々が綴られていたが、それは後日の話ということで。

さて道草が重なったが、もう少し。

授業は、香港島の北角のランドマークでもある五洲大廈(ウンチョウタイハ)にあった先生の自宅の一室で。五洲大廈といえば、九龍半島先端の尖沙咀(チムサーチュイ)の重慶大廈(チョンキュン・マンション)、いまはなき啓�(カイタック)空港近くの九龍城(カオルンセン)と共に香港を代表する3大ランドマークの1つだった。

五洲大廈を知らずして北角を語ること勿れ。重慶大廈に足を踏み入れずして尖沙咀で遊んだなどと自慢すること勿れ。九龍城を歩き回らずして香港を堪能したなどと口が裂けても言う勿れ――である。

五洲大廈通いは週1回で3年ほど。重慶大廈での飲み明かしは数知れず、九龍城にはお世話になりっぱなし・・・で、香港の“古き良き殖民地時代”をタップリと味わい尽くした、というわけです。現在の香港は“新しき悪しき殖民地時代”に呻吟する。悲惨です。

さて、啓�空港近くの天光道にあった新亜研究所の研究室から五洲大廈へ行くには、道路までが機械油でテカテカに濡れているような雰囲気の町工場街を抜け、一段と高くなった台地を通り、フェリーの船着き場――たしか九龍塘(カオルントン)碼頭――まで歩いて10分ほど。

途中の台地は工場跡地のような雰囲気だった。バラックとバラックの間に生い茂る草むらの上に敷いたアンペラに解体した生肉を並べ、犬肉屋さんが商売をしていた。もちろん商売だから客もいる。これが中華人民共和国特別行政区として生まれ変わった日から四半世紀ほどを遡った当時の、英国殖民地時代の香港の一角の、ある日の姿だった。《QED》


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