――「ポケット論語をストーブに焼べて・・・」(橘31)橘樸「中國人の國家觀念」(昭和2年/『橘樸著作集 第一巻』勁草書房 昭和41年)

【知道中国 2070回】                       二〇・五・初二

――「ポケット論語をストーブに焼べて・・・」(橘31)

橘樸「中國人の國家觀念」(昭和2年/『橘樸著作集 第一巻』勁草書房 昭和41年)

橘に依れば「民族を總體社會とすれば、之を構成する部分社會として從來中國人の作り得た」のは家族、宗族、同郷、同業を軸にした相互扶助の結びつきであった。それらの結びつきを一緒にしても国家にはならない。だが中国は中国として一貫して続いて来た。

そこで橘は「此の久しい歷史を一貫し得たには何か特殊な理由がなくてはなるまい」と疑問を提起し、先ずは「中國人の抱く民族意識が特に強かった」からだろうと推測する。

「此の民族意識の具体的内容は、申す迄もなく卓越せる文化の共同所有者と云ふ信念または誇でなくてはならぬ。鞏固なる國家組織が此の卓越せる文化を異民族の破壞から免れしめる爲の最上の手段であると云ふ事は、夙に孔子が認め」ている。にもかかわらず「民族意識の強く且つ文化意識の信念の高い中國人でありながら、何故之を發揮又は擁護する手段として鞏固なる國家思想を發達」さえせられなかったのか。その要因を中国独特の「官僚階級統制」に求めた。

古今東西を問わず「他の民族に在つては貴族階級統制の時代から直に資産階級統制の時代に移つた」。だが「獨り中國民族のみは其間に官僚階級統制なる特殊な一時代を千年に亙つて介在」させた。「官僚階級の固定に伴つて政權の所在が固定した」。とどのつまり宋代以降の封建専制国家体制においては、天下は皇帝の私有財産であり、臣下である官僚は皇帝の私有財産を運営する機関となった。

以上から橘の考えを整理すれば、(1)中国における国家とは「皇帝及び其の權力行使の方便たる官僚階級の上に存在する」。つまり国家を構成しているのは皇帝と官僚階級のみ。(2)官僚が享有する特権を皇帝のためだけではなく、「彼等自身の爲に利用して其の利慾や名譽心を滿足させるために努める」。(3)そこで国家は「理論的主人公たる皇帝」だけではなく、「實際上の主人公たる官僚階級」にとっても「搾取機關として民衆に臨むことになる」。

以上が、中国における国家の基本的な仕組みということになる。ここで思い出してもらいたいのが、歴代王朝における官僚の少なさである(2057回参照)。全人口に対して官僚が最も少なかったのが清代(1796年)を例にするなら、2億9千万人の全人口に対し官僚は2.2万人に過ぎなかった。国家から利益を得ているのは国家を構成する「皇帝(1人)+官僚(2.2万人)」だけであって、残る2.9億人は国家の利益に与かれない。

じつは官僚の俸給は少額で生活ができない。加えて「數年乃至數十年を通じて豫算が固定されて居る」ところから、官僚の責任は予算内に止まり、「豫算外の収支は全然不問に附せられる」。そこで「一方には朝廷の財政に損害を與へず、他方には人民の叛亂を惹き起こさない限り、官吏は彼等の意の儘に私嚢を肥やす事が出來る」。こういう仕組みだから皇帝に忠義を尽くすとか、民衆の生活向上に意を注ぐなどということはしない。官僚はひたすら効率的に「自身の物質慾や名譽慾を滿足させるか」に励むことになる。

以上を要するに、国家からは除外されながら、国家を維持するために国家から「搾取を受けるだけの民衆が國家に對して無關心である事に不思議は無い」はずであり、「事實上國家の構成員たる官僚階級者も亦、皇帝或は國家に忠誠なるよりも」、私利私欲や名誉心を満足させるために許された特権を存分に行使することになる。かくして最後に残るのは皇帝のみ。そこで「皇帝以外の誰人も國家を顧みない」ということだ。突き詰めれば皇帝にとっての国家は、皇帝一族にとっての個人的財産――たとえば朱元璋が興した明は朱一族の、ヌルハチを始祖とする清は愛新覚羅(アイシンギョロ)一族の――なのだ。

利益は生まずに損ばかりだから「民衆が國家に對して無關心」・・・そりゃそうだ。《QED》


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