――英国殖民地だった頃・・・香港での日々(香港88)

――英国殖民地だった頃・・・香港での日々(香港88)
【知道中国 2206回】                       二一・三・初四

――英国殖民地だった頃・・・香港での日々(香港88)

 

 長々と「死者のホテル」の思い出に耽ってしまったから、次はマトモな話題を。とはいえ、曰く因縁のありそうなホテルにまつわる思い出ではあるが・・・。

 アルバイトで日本語を教えていた第一日文の住所は尖沙咀の山林道35号だったような。第一日文を左手にして山林道を奥に進む。突き当りの階段を降りると、道幅の広い柯士甸道(オースチン・ロード)に突き当たる。右折して道なりに進むと、名前は忘れてたが高価北京?鴨(北京ダック)がウリの老舗・北京料理レストランがあった。

当時は大陸は文革の真っ盛りであり、北京では北京ダックの老舗で知られた全聚徳や老便宜坊などが紅衛兵に攻撃され本来の味を提供できなくなったと報じられていただけに、この店の北京?鴨の味が“世界最高”と評判だった。

北京?鴨の全聚徳や老便宜坊のみならず、清蒸蟹に姜味蟹の正陽楼、羊肉の東来順、五柳魚の酔瓊林、炒牛肉絲の恩成居小吃館、さらには清朝の乾隆帝がたった一人お忍びで通ったという伝説で知られる焼売の都一処など、「老北京」(北京っ子)の舌を唸らせた名店の数々は紅衛兵に「労働人民の搾取の象徴」「資本家の牙城」と糾弾され、トウモロコシの饅頭にスープの「労農兵メニュー」を作らざるをえなかったらしい。

であればこそ、香港の北京?鴨が世界最高の味と評判になったとしても不思議ではなかったような。そんな時代だった。

時折、D先生に連れられ栄養補給に行った。西洋人を含んだ客の多くはカンバン料理の北京?鴨に舌鼓を打っていたが、北京?鴨を好まない身としては、先生のご厚意に申し訳ないとは思いながら乾豆腐を注文した。濃い目の?油味でコーティングされ8センチ角ほど硬い豆腐を3ミリほどの厚さ切り分けた極めて単純な料理だ。これを辣?にチョッとつけ、香菜と共に口に運び、人肌に温めた紹興酒で胃の腑に運ぶ。まさに口福の一刻だった。

そういえば、この店で提供されるビールは西ドイツ(当時は東西ドイツ時代だったのだ)製でビンは透明。いつも飲んでいた香港製の生力(サンミゲル)や中国製の青島などに較べステキな喉越し。旨いだけに値段も高く、青島より安価だったから愛飲していた中国製の雪花の3、4倍していたように記憶しているが・・・。

当時の香港で飲めた中国製ビールは青島と雪花の2銘柄だけ。ご当地ビール乱立の現在からは想像すらできないほど。文革当時は、ビールまでもがツツマシヤカだったのだ。

閑話休題。

柯士甸道に降りる階段の手前50メートルほどを左に折れ、下り勾配の松山道を進むと柯士甸道に突き当たる。その左手の角に馬票(ばけん)売り場があり、柯士甸道を越えて斜め右前方には、濃い緑に囲まれた、眩いばかりに輝く緑の芝生の広場が見えた。真っ白の上下の軽装の腰に大き目の真っ白なタオルを下げた大柄の英国紳士たちが、片手にビールのジョッキを持ちながら昼日中から鉄の玉を投げ合っていた。時折、「準英国紳士」、あるいは「高等中国人」とでも形容できそうな雰囲気の中国人も混じっていた。高い網のフェンスで囲まれた一帯は“治外法権”とでも言えそうな雰囲気をプンプンと醸し出し、香港が殖民地であることを、言い換えるなら支配と被支配の関係を厳然と見せつけていた。

 松山道の右角は照明器具屋で、その数軒先が問題の金門酒店(ゴールデンゲート・ホテル)である。因みに柯士甸道は金門酒店の先辺りで右に大きくカーブし、しばらく進むと例の階段と合流する。

 金門酒店の狭い入口を入ると、ロビー左側の壁際に日本の新聞が数紙が置いてあった。些か財布に余裕があった時など、日本の新聞を手にロビー右手にあった日本料理屋で時を過ごしたものだ。なぜ、こんな所に日本人専用に近いホテルがあったのだろう。《QED》

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