――英国殖民地だった頃・・・香港での日々(香港73)

――英国殖民地だった頃・・・香港での日々(香港73)
【知道中国 2191回】                       二一・一・卅

――英国殖民地だった頃・・・香港での日々(香港73)

 

いまさら桑原や仁井田のダメさ加減を嘲笑したところで詮無いこと。ただ、戦後日本の“最高の知性”と呼ばれる人物たちのブザマな姿を再確認しておけばいいだけである。

幕末の遣米使節から桑原・仁井田までの100年ほどの間、日本人が香港をどのように捉えていたのかをザッと見てきたが、不思議な思いに駆られてしまう。「戦後民主主義」の下での日本人は現実に対する冷静で大局的な視点を見失い、本質から遠ざかり、自らが描くバーチャルな夢物語を現実と思い込んでしまう。この悪弊は、はたして克服できたのか。

香港の街を歩き、「支那人英人を恐れるる事鱗の鰐に逢うが如し」と殖民地の現実を綴ったのは、幕末の遣米使節の1人だった。殖民地の理不尽さと悲哀を悟ったに違いない。

香港はイギリスが「商権を拡張し、軍威を輝かせる」ために「巨万の富を惜しげもなく注ぎ込」み、結果として「東西交流は日に日に隆盛を極め」、「それは単にイギリス一国を利するだけではな」いと、岡千仭は清仏戦争(1884年~85年)の頃の香港を捉えている。

岡から15年ほど遅れた1900(明治33)年4月半ばに香港に足を印した小説家の大橋乙羽は支配・被支配の人間模様を見て取り、「実に香港は人生の小劇場よ」と呟く。

大橋から10年が過ぎた1910年、ロンドン取材の帰路に立ち寄った長谷川如是閑は、殖民地となった香港の背後に清朝とイギリスの国際社会における力関係を見抜いた。

「英国は千八百六十年の条約でこの九竜と香港とを取って更に九十八年に北緯二十一度九分の線から北を東経百十三度五十二分より百十四度三十分に至る間、真四角に分け取ったがその手段は余り真四角ではなかった。何しろ衡の一方が飛び上がって一方が地に着いている始末だから、両者の間の平衡は強者の意思に代わって維持せらる」。やはりジタバタしたところで始まらない。遺恨・・・復仇の機が熟すのを韜晦しながら待つしかない。

長谷川から30年が過ぎ、ちょうど満州事変の前年に当たる1930年に香港を歩いた石川達三は、街角の公衆便所の四囲に壁を埋めた「打倒日本帝国主義!」の文字にたじろぐ。

石川から8年後、盧溝橋事件勃発から1年後の1938年、野上豊一郎は、「――香港は、イギリスが支那から取り上げて造ったイギリス風の町ではあるが、抜け目のない支那の商人は(この際到る所にうじゃうじゃして居る苦力のことは考慮の外に置くとして)イギリス人に開拓させた町の中に巧みに食い込んで(上海とてももちろんそうだが、)支配されながら支配しているのだ。イギリスは百年前に戦争で支那に勝ち、その後の百年間に財的に次第に支那に復讐されつつあるのだ。おそるべきはイギリスの勢力ではなく、神秘的な支那民族の底力である。香港・上海が今後どうなるかは知らないが、其処に潜入してる支那の財的勢力は政治軍事の表面の勢力よりも一層警戒すべきものではなかろうか。それは単なる経済学の問題ではなく、民族学・民族心理学・国際文化の問題である」と、声低く警告を発していた。

やがて敗戦。日本の最高学府である東京・京都両大学を代表する2人の看板教授――桑原と仁井田――が捉えた香港の姿は陳腐に過ぎた。だが陳腐なのは香港ではなく、知性の欠片も見られない彼らの無惨な思考回路にこそあるはずだ。

この間、平岡伊平治が記した「日本人の女郎二百人ばかり」と「野間商店」や「密犬(淫)売を兼ねたコーヒー店も五、六軒」を舞台に、勝海舟の説く「海外発展」が演じられもしたのである。もちろん、一貫して香港は危なっかしい街だった。そして今も。それが魅力。

かく振り返ってみると、桑原・仁井田の香港に対する見方のノー天気ぶりが、あまりにも際立つ。これを進歩的文化人(あるいはリベラル派知識人)の怠惰と無責任と断罪するだけでは、物事は解決しそうにない。そこに日本人の精神の弛緩を痛感するからだ。

――こんなところで、再び「香港の黄金時代」の我が愉快な日々に戻ってみたい。《QED》

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