――英国殖民地だった頃・・・香港での日々(香港159)

――英国殖民地だった頃・・・香港での日々(香港159)
【知道中国 2277回】                       二一・九・仲九

――英国殖民地だった頃・・・香港での日々(香港159)

戯迷の道に迷い込んでしまったナゾは、今に至っても全く分からない。どう考えても解き明かせない。解き明かせないままに、当時の京劇三昧の日々を、少しばかりの慚愧の念を込めて振り返ってみたい。

検場になろうなどと無謀が過ぎたと大いに反省したことはもちろんだが、ならば決意も新たに第六劇場に通い詰めるしかない。かくして、とにもかくにも第六劇場中心の生活へと突き進んだ。

当時の生活サイクルの一例を思い出してみると、夕方に研究室を出て第一日文へ。授業は6時から9時まで。学生の相手をしているヒマはない。9時以降の授業料はもらっていない。だから授業が終わると学生の質問は一切拒否し、駆け足で近くのバス停へ向かい12号のバスに飛び乗った。学生の間に?園通いが知られるようになると、「先生、急いで」と半ば呆れ顔で見送ってくれたものだ。

夜の9時を回っているから道路は空いている。バスは弥敦道(NAITHAN ROAD)を一気に北上し、亜皆老街(ARGYLE STREET)の少し先で左に折れ?枝角道(LAI CHI KOK ROAD)に入る。やがて終点の?園だ。正面入り口から入らず、手前を左折し壁沿いに少し進む。客家料理レルトランの厨房入り口が、暗がりにポッカリと口を開けている。

そこから厨房の中を通って客席の脇を抜け、レストランの正面から外に出て、第六劇場に走り込む。この無料入場ルートを教えてくれたのは、第六劇場の戯迷仲間だった。

第六劇場は顔パスだから切符は不要。舞台を見詰めながら客席真ん中の通路を進み最前列へ。左右の戯迷仲間に挨拶をしてからユックリと“指定席”へ。それから、当時は弥敦道界隈で最も大きく品揃えが豊富だった中原電器行で大枚を叩いて買ったカセット・レコーダーを舞台袖に置いてスイッチ・オン。もちろん、電気は舞台照明用のコンセントから拝借である。ここまで、第一日文の教室から30分、40分。これから劇終(まく)までの1時間ほどが至福の時だった。

こうしてライブの舞台を録音したテープは600本以上。先日、それを引っ張り出して試しに動かすと、リッパに音が出る。舞台の声から童伶たちの舞台が思い浮かぶだけではなく、戯迷仲間の雑談も録音されているではないか。たちまち半世紀ほど昔の第六劇場が脳裏に蘇ったことは、言うまでもない。

さて、家庭教師と第一日文で稼いだカネの大部分はレコード、カセット・テープ、録音用のナマのテープ(いちばんお世話になったブランドは、「SONY」のデザインそっくりの「SUNY」だった)、京劇観劇のための台湾旅行費、京劇関連書籍代、それに時々の“タニマチ代”。第六劇場が顔パスになったのは通い出して1年ほどが過ぎた頃だから、やはり出費は少なくはなかった。

京劇漬けの日々は、当然のように生活費全般を圧迫する。そこで食費を切り詰めるしかない。かくして体調は狂い出す。留学当初は80キロを大幅に上回っていた体重も、いつしか70キロから60キロ。やがて60キロを下回り50キロ以下。じつに30数キロのダイエットである。“戯迷ダイエット”と言えば聞こえはよさそうだが、完全に栄養失調状態。最悪時は痩せの危険ラインを大きく下回るほどだった。

かくして日本から持って行ったズボンは、どれもがブカブカ。バンドは腰を2周り寸前。体に合ったズボンやバンドの新品を買えばいいものを、そちらに回す金銭的余裕はない。いや、そもそも、そんなことを思いつくこともなく、京劇、京劇、第六劇場、第六劇場だった。

ともかくも夕方になるとウズウズ、ソワソワ・・・奇妙・奇態・妙・不思議。《QED》

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