――英国殖民地だった頃・・・香港での日々(香港133)

――英国殖民地だった頃・・・香港での日々(香港133)
【知道中国 2251回】                       二一・七・仲五

――英国殖民地だった頃・・・香港での日々(香港133)

ここで1950年代の香港国際空港(啓徳空港)の到着ロビーを頭に思い描きながら、地場の華資の歩みを振り返ってみたい。

早朝4時頃には、到着ロビーに人々が集まり始める。彼らの目当ては日本人出張者らしい。当時、日本からの航空便事情は悪く、2、3時間の遅延は珍しくなかったから、ジッと待つしかないのだが、彼らはホテルの客引きではない。

日本からの出張者が入境手続きを終えてロビーに姿を現すと、30代後半と思しき見ず知らずの中国人が近づいて、スッと手を伸ばす。と、その動作に誘われでもするかのように日本人出張者はスーツケースを渡してしまう。すると中国人は相手に考える暇を与える間の無く、「さァ、私についてきて」と先に立ってズンズンと進む。その声に急かされるかのように、慌てて追いかけるしかない。どこの馬の骨とも分からないヤツにスーツケースを持ち去られたら、香港で身動きが取れないではないか。

ロビーを出ると、そのまま一緒に車でホテルへ直行する。部屋に入ったら先ずイッパイ。一息入れた後、グラスを傾けながらジックリと商談だ。その中国人は生来アルコールは大の苦手だが、ビジネスのためには痛飲も辞さなかったとか。日本からの出張者は大歓待に心を許し、ならばと契約を結ぶことになる。魚心有れば水心。この得体の知れない人物こそ若き日のY・K・パオで、こうして彼は次々に日本人出張者の心を掴み商談を纏めたとか。

万邦航運を起こした曹文錦なんぞも同じように早朝から網を張っていた仲間だというから、啓徳空港到着ロビーにおける顛末はY・K・パオの出世物語にまつわる“都市伝説”と無視するわけにはいきそうにない。

じつはY・K・パオの成功の第一歩は、1955年の山下汽船への長期低利のリースと言われている。はたして山下汽船からの出張者も、こうして彼の術中に嵌まったのだろうか。

船舶の短期貸し出し方式のハイリスク・ハイリターンを狙っていた当時の多くの船主の手法ではなく、彼が究極的に目指したのはローリスク・ハイリターンでも呼ぶべき手法だった。手持ちの船舶を休ませておく手はない、ということだろう。「所有船舶は資産と言えるが、貸し出せず係留したままなら負債ではないか」と、後に語っている。

かくて手持ちの老朽船舶を改装し主に日本企業に長期に貸し出す形で雪だるま式に財産を増やし、保有船舶を増やす一方で、融資を仰いでいたHSBC(香港上海豊匯)の経営の一角に手を突っ込みはじめる。いよいよ本格的な越後屋道の始まりだ。1970年代に入るや、先ずはJardine & Matheson(怡和洋行)傘下の九龍倉集団(The Hong Kong & Kowloon Wharf & Godown Company,Limited=香港九龍碼頭及貨倉)の買収に動き、1980年から85年の間に九龍倉集団、会徳豊(Wheelock & Company)集団を一族の手中に収めた。

次に世界規模での海運ビジネスの先細りを読んで、船を手放し陸上のビジネスへ。これを「棄舟登陸」戦略と呼ぶようだ。ハイリスク・ハイリターンである。

彼は華資のイギリス資本買収の先駆けとなる一方で、香港返還に向けて動き出した�小平に接近する。かくて李嘉誠を先頭に、多くの華資はY・K・パオの手法に倣ってイギリス資本に対し買収攻撃を仕掛ける。以下、香港留学時に見聞きした企業家の動きを振り返りながら、越後屋集団の合従連衡劇の大筋を追ってみよう。

かねて指摘しておいたように「地産覇権」「財閥独裁」という社会構造を持つ香港においては、不動産ビジネスこそが経済活動の全てと言っても過言はないだろう。その原点になったのが1967年の「香港暴動」という危機だ。だが危機の機は商機の機でもあるのだ。

 あの時、先行き不安のなかで多くの企業や住民が香港を離れ、多くの物件が売りに出された。かくて不動産価格が値崩れを起こす。この危機に大商機が生まれる。《QED》

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