――英国殖民地だった頃・・・香港での日々(香港100)

――英国殖民地だった頃・・・香港での日々(香港100)
【知道中国 2218回】                       二一・四・初四

――英国殖民地だった頃・・・香港での日々(香港100)

 

あれは香港生活も半年ほどが過ぎた頃の1971年初夏の頃だったと記憶する。下宿に戻ると、2人の若者が客間で大家のSさんと額を突き合わせて小声で話し合っていた。それまで見たことのない顔であり、そのうえ香港の若者とは異なって質素極まりない身形で、目が血走り殺気だっていた。当時、香港の若者の間で流行していた「ラッパズボン」と呼ばれた裾の広がったズボンを穿くような雰囲気は、彼らからは微塵も感じられなかったのだ。

私の顔を怪訝そうに眺める彼らに向かって、Sさんは「日本人留学生だ」と紹介した後、「この若者は元紅衛兵で、大陸を脱出し、やっと私を探し当て、今後のことを相談しているところ」と。

じつはSさんは大学では数学を専攻していた。1950年代末期の反右派闘争の際、共産党に反対の声を上げたことから追われる身となり香港に逃げてきた。Sさんからは、異見の持ち主に対する共産党の徹底して冷酷・非情な対応ぶりを耳にタコができるほど聞かされた。

若者の1人が便所に立ったが、すぐに戻ってきた。どうやら洋式便器は見たことがなく、どう使っていいのか分からないらしい。そこでSさんが先に立って使い方を教えた。彼らは中国の山間僻地ではなく広東の都市部で育ったとのこと。にもかかわらず洋式便器は初めてというのだ。初めてであったとしても使い方ぐらいは“本能的”に分かりそうなものだが。さすがに驚くばかり。

こんなところから、「偉大な領袖」である毛沢東に率いられた「新中国」「人民中国」が秘めた、日本ではついぞ聞かれなかった“不都合な真実”の一面を知った思いだった。 

そういえば新亜研究所で隣の研究室の先輩――彼も物心ついた頃、家族と共に深?河を越えて香港に逃れ着いた――に、「中国では国民皆兵で、若者以上のすべての国民に銃を渡し、国防訓練をしていると日本では伝えられているが」と質問したことがあった。すると即座に、「日本人はバカか。大陸の工業力は、青壮年の全てに銃を与えられるほどに発達しているわけはない」と、彼は苦笑するばかり。

たしかに先輩の説く通りだ。常識で考えれば、青壮年の全てが即座に戦えるほどに銃を持たせるためには、不具合・故障などを考慮すれば、おそらく青壮年人口の数割増しの銃と弾丸を常備しておかなければならないはず。かくして新島淳良をはじめとする毛沢東主義者の夢物語は当然のこと、日本で仕入れた中国に関する“日本的常識”の一切を捨て、虚心坦懐に知ることを心した次第だ。それが奏功したか否かは別問題ではあるが・・・。

新亜研究所の同期の1人も、ある時、紅衛兵として暴れ回っていたが身の危険を感じて香港に逃げてきたと自らの過去を話してくれた。ともかくもガムシャラな勉強ぶり。その理由を尋ねると、「ともかくもアメリカに行きたい。アメリカに逃れて自由に研究したい」と。ある時、「オレ、ハーバード大学行きが決まったから」。どんな伝手でアメリカに渡ることが可能になったかは話してはくれなかったが、おそらくアメリカは香港をハブに様々な人脈、ルート、ネットワークを張り巡らし、中国研究の人材をリクルートしていたのだろう。まさに「アメリカ、恐るべし」、である。

「真の意味での文化大革命は、一九六九年四月の党大会で終わったと考えるのが合理的では」(前掲『中国との格闘  あるイギリス外交官の回想』)とは言うものの、当時は文革が終わったわけではなった。そこで武闘の犠牲者と思われる雁字搦めに縛られた死体や、逃亡途中でサメの餌食になった無惨な死体などが砂浜や埠頭に流れ着くこともあった。

当時、香港で文革に接することができたのは中国系書店の内側だけだった。そこには批林批孔運動、儒法闘争、『水滸伝』批判運動などの推進役を果たした大量の書籍――まさに、それは「紙の爆弾」と呼ぶにふさわしいような量と内容――が並んでいたのだ。《QED》

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