――「ポケット論語をストーブに焼べて・・・」(橘46)橘樸「『官場現形記』研究」(大正13年/『橘樸著作集第一巻』勁草書房 昭和41年)

――「ポケット論語をストーブに焼べて・・・」(橘46)橘樸「『官場現形記』研究」(大正13年/『橘樸著作集第一巻』勁草書房 昭和41年)
【知道中国 2085回】                       二〇・六・初一

――「ポケット論語をストーブに焼べて・・・」(橘46)

橘樸「『官場現形記』研究」(大正13年/『橘樸著作集第一巻』勁草書房 昭和41年)

ここまで読み進んできて考えることは、橘は孫文の中に自らの理想の中国像を見出し、そこから中国社会の改造を目指し、橘式の王道楽土(東洋的社会主義?)を満洲の地に打ち立てようとした。その一方で、祖国に対しては日清戦争前後以降に日本が重ねた「過ちを恥じ、其の對華態度を豹變する義務」を果たし、「先ず(日本)政府の側から言へば、中國を完全に對等の國家として取扱ふべきである」と訴えた。

――どうやら、この辺りに彼の基本姿勢があるように思えてくる。この見方が当たらずとも遠からじだとするなら、毛沢東の中国には畏怖と拝跪と屈服とが綯い交ぜになったような姿勢で接する一方、自らは高みに立ち、日本と日本人に向かって中国に対する“贖罪姿勢”を高圧的に求め、かくて一部メディアで持て囃された竹内好に通ずるように思う。

そういえば竹内の硬骨漢を思わせる言動も、国士ぶった佇まいも、行動する孤高の賢人と言った風な振る舞いも、付け加えるなら若者との交流ぶりも、今となって考えれば、どことなく橘に似ていなくもない。だとするなら、竹内は橘のパクリだったのか。

最初に読んだ「中國を識るの途」を収めた『支那研究』(第一巻第一號)の「時評數則」で橘は、「やはり(日本式漢学の)古い傳統に捉われて、政治が何かこの雄大な民族の生活に寄与する万能性を持つものだという風に買い被っていた」。だが現実に辛亥革命から袁世凱の死に至る数年間の政治を目にしたことで、橘は「中國のいわゆる政治のいかに馬鹿馬鹿しいものであるかという、その本質を悟り得た次第である」と口にしている。

そこで彼は、「中国の傳統政治が中國に特有な社會組織の上に行われているものであり、而してかくのごとき社會組織からは必然的にかくのごとき政治の發生するものである」との考えを導く。

 ここまでは取り立てて異論を差し挟む心算はない。それと言うのも、極めて当たり前の考えだと思うからである。だが、これに続く「從つて中國の政治を我々の政治學から�へられたように鑄直すためには、その社會組織を改造してかゝる外ないのだと云ふ結論に到達した」となると、どう考えても首を傾げざるを得ない。

 たしかに自国であれ他国であれ、政治がそれぞれの国に「特有な社會組織の上に行われているものであり」、であればこそ、その国の政治を改めるためには「その社會組織を改造してかかる外ないの」ではある。

だが、だからといって異国である「中國の政治」を、「我々の政治學から�へられたように鑄直す」ことが必要なのか。そんなことまでする権利を、外国人である橘が持つ道理があるのか。そこまで「我々の政治學」を絶対視しなければならない理由が、どうにも分からない。さらに言うなら「馬鹿馬鹿し」いものであったにしても、中国の政治は「我々の政治學」のためにあるわけではないはずだ。

 いったい「中國のいわゆる政治のいかに馬鹿馬鹿し」かろうが、「馬鹿馬鹿しい」ままに時を送ろうが、断固改めるべしと革命に決起しようが、それは中国人にとっての問題であるはずだ。ましてや異国の人間である橘が、敢えて「我々の政治學から�へられたように鑄直」そうなどと息巻くこともない。空恐ろしいまでの、要らぬオ節介だろう。

 これまで中国の「馬鹿馬鹿しい」政治を、好くも悪くも下支えしている「中國に特有な社會組織」を解明しようとした「中國民族の政治思想」「中國の民族道�」「中國人の國家觀念」を読み進んできたが、もう少し橘を読み継ぐことにする。それというのも、彼の仕事を通じて、彼が言論活動を続けた時代の日本の中国認識の概要・趨勢を知ることができるのでは、と考えるからだ。そこで先ずは官僚社会の分析辺りから取り掛かりたい。《QED》

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