――「『私有』と言ふ點に絶大の奸智を働かす國である」――竹内(8)竹内逸『支那印象記』(中央美術社 昭和2年)

――「『私有』と言ふ點に絶大の奸智を働かす國である」――竹内(8)竹内逸『支那印象記』(中央美術社 昭和2年)
【知道中国 1882回】                       一九・四・廿

――「『私有』と言ふ點に絶大の奸智を働かす國である」――竹内(8)

竹内逸『支那印象記』(中央美術社 昭和2年)

 日本では「雰圍氣は暗く且つ物凄い」賭博に、「謂はゞ惡事を積極的に認識してゐる」。これに対し「支那では、實に平氣だ。寧ろ凡々だ」。やはり「支那と言う土地は、日本にゐる時のやうに、一々細かく批判を下したり、咎め立てをする必要に迫られない地である」。

 確かに日本では賭博の「雰圍氣は暗」いうえに、「謂はゞ惡事」に属している。だが、中国人にとって博打はそうでない。「雰圍氣は暗」くないというより明るく、「謂はゞ惡事」ではなく日常茶飯事に属す。

たとえば本場のラスベガスを遥かに凌ぐ規模を持ち、「東洋のラスベガス」といわれるマカオである。豪華リゾートホテルに併設されたカジノに一歩足を踏み入れれば驚くばかり。体育館のような巨大なホールは明るい照明に光り輝き、歓声に満ち溢れている。床に並ぶ無数のカジノ・テーブルには老若男女が群れ集い、多種多様な種類の博打に打ち興じている。「勝って驕らず、負けて沈まず」とまでは言わないが、誰もが博打を楽しんでいる風だ。カジノの入口に掲げられた「娯楽場」の漢字3文字が、それを物語っている。確かに彼らにとって賭博は「謂はゞ惡事」なんぞではなく、誰憚ることなく公明正大に楽しめる「娯楽」ということになる。

 さて竹内だが、煙のような雨の蘇州を歩きながら考えた。庶民は賭博を楽しみ、「運を天に任せて、自然調節に依つての勞働時間で、平和を樂しんで」いる。そこでふと思いついた。「支那の俚諺は『幸福な人の腦袋は大きい。不幸な人もまた同じく腦袋は大きい』と言ふ」ではないか、と。

 「腦袋」、つまり脳みそである。幸不幸は「腦袋」では決まらないとは絶妙の人生訓だと思うが、してみるなら毛沢東から始まって?介石、劉少奇、林彪、江青、周恩来、�小平・・・習近平などなど。誰の「腦袋」の大きさは同じだと、中国人は考えているのだろうか。

蘇州を去るに当たって名勝の天平山と霊巌山に遊んだ。

 ダラダラと続く霊巌山への長い山道は、「乾隆帝行啓のために態々修造したと言ふ敷瓦路」だったから驚かざるを得ない。「支那は何んでも大仕掛けだ。統一さへつけばどんなことを仕でかすか知れやしない。始皇帝と萬里長城。煬帝と南北支那を貫く運河」。それに較べれば「日光の杉並木なんて支那人に言はせれば兒戯だと言ふだらう」。

 竹内が遊んだ頃の中国は統一とは真反対の大混乱の時代であり、天下は麻糸の如く乱れていた。だからこそ「統一さへつけば」という断りを記したのだろうが、確かに「統一さへつけばどんなことを仕でかすか知れやしない」とは至言だ。

 共産党政権の歩みを振り返ってみれば、大躍進、文化大革命、改革開放、そして近くは一帯一路、それに異常なまでに急速度で全国展開している高速鉄道網建設――どれもこれも世界が驚いた。毛沢東にしても�小平にしても、ましてや習近平にしても、政敵を悉く屠り独裁権力を手中に収め北京最高指導部の統一を果たしたからこそ、どえらいことを仕でかしたのだろう。

 これを逆に言うなら、始皇帝から現在の共産党指導者まで統一を果たしたと思い込んだが最後、やはり最高権力者たる者は世界の度肝を抜くような「大仕掛け」を「仕でかす」。いわば「大仕掛け」こそが天下の唯一者にとっての存在証明となりそうだ。

 蘇州に並び称せられる地上の「天堂」と呼ばれる杭州へ。

 「何處へ行つても可愛いゝのは子供だ。支那の子供は世界中で一番可愛いゝだらう。(中略)あゝした子供が馬賊になつたり私の尻をステツキで毆つたりする人間にならうとは信じられない」。だが可愛い子供も長じて馬賊に。いや馬賊も昔は可愛い子供だった。《QED》

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