――習近平少年の読書遍歴・・・“あの世代”を育てた書籍(習131)

【知道中国 2465回】                      二二・十二・念一

――習近平少年の読書遍歴・・・“あの世代”を育てた書籍(習131)

 ヴェトナムで「建国の父」とされるホー・チミン(漢字で胡志明と綴る)は中国国内で国民党の手で逮捕され、広西の監獄に収監されていた(1942~43年)。気になった作品をいくつか拾っておく。

先ずは「獄中日記」を、

 「身体在獄中、精神在獄外。欲成大事業、精神更要大。」

  ――身体(からだ)は獄(ひとや)の中にはあるが、精神(こころ)は獄の外に在る。大事業(かくめい)を成そうと欲(のぞ)むなら、精神さらに大きかれ――

 次いで「解嘲(てれかくし)」を、

 「吃公家飯住公房、軍警輪班去擭従。玩水游山随所適、男児到此亦豪雄。」

  ――メシも住まいもオカミのもので、朝から晩まで警護付き。玩水游山(ものみゆさん)は思うがままさ、こうなってこそ豪雄(かくめいか)――

 最後に「久雨(あめつづき)」を、

 「九天下雨一天晴、可恨天公没有情! 鞋破路泥汚了脚、仍須努力向前行。」

  ――九天(ここのか)雨で晴は一天(いちにち)、天公(てん)に情がないのを恨む!鞋(くつ)は破れて路(みち)は泥、脚(あし)は汚(どろ)に取られはするが、努力(つとめ)て向前(まえ)に行(すす)むべし――

 毛沢東を呆れるばかりに、超大々的に拍馬屁(ヨイショ)した中国人は、隣国の革命家の「一百首」から、なにを感じ取っただろう。もっともホー・チミンだって、一年三百六十五日昼夜を分かたずに農村の好々爺然とした「ホーおじさん」であったはずがない。なにせヴェトナムで、労働党(共産党)独裁政権を打ち立てたのだから。

 因みに『“監獄日記”詩抄』の初版の出版は、大躍進が引き起こした飢餓地獄に全国民が苦しんでいた最中の1950年5月。22年後の72年の再販に、なにか政治的背景はあるのか。

閑話休題。

 文革は考古学方面に思わぬ成果をもたらしている。その一端が、1966年8月の文革開始から72年まで6年間に全国で進められた遺跡発掘調査の初歩的報告書『文化大革命期間出土文物』(人民出版社 9月)で紹介されている。

 年代的には春秋戦国の時代から元まで。地域では新疆のトルファンやシベリアと旧満洲を限るウスリー江流域まで。どの遺跡も人民解放軍やら「当該地の革命大衆の通報」がきっかけとなって発掘・調査が進められたとのことだ。

全国を大混乱に巻き込んだ文革の時代に、よくぞまあ落ち着いてノンキに発掘作業なんぞに勤しむことが出来たものだと感心するしかない。だが、考えてみれば「毛主席の革命路線」という“伝家の宝刀”を抜き払ったら万事が解決されてしまった時代だから、考古学者の向かうところ敵なし、ではなかったか。

 とどのつまり「毛主席の革命路線の導きの下、広範なる労働者・農民・兵士大衆の支持と助力を得て、我国の文物・考古工作者はプロレタリア文化大革命の期間、大規模な文物保護と発掘工作、多くの文化遺跡と古代の墓域の発掘と整理を推し進めた。これら歴史的文物は、我が国歴代の政治、経済、文化、軍事、対外友好交流情況などの研究と理解において、重要な科学的価値を実際に備えている」のであった。

 文革の混乱渦中ではあるが、たしかに「毛主席の革命路線の導きの下、広範なる労働者・農民・兵士大衆の支持と助力を得」さえすれば、出来ないことはなかったはずだ。

 ところで、なぜ全土が混乱の極に達していたはずの文革最激動期に、かくも多くの貴重な考古文物の発掘が進められたのか。やはり不思議としか言いようはない。《QED》


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