――習近平少年の読書遍歴・・・“あの世代”を育てた書籍(習98)
『在毛沢東思想哺育下成長』には湖南、内モンゴル、河南、北京、上海、江蘇、遼寧、寧夏など中国の各地で「毛沢東思想の哺育の下で成長」した“立派すぎる子どもたち”が次々に登場し、手を変え品を変えて超人的な政治活動を報告する。
たとえば10歳の少女の戴碧蓉チャンは、1968年9月14日、父親の職場である湖南省株洲駅の操車場において、3人の「小朋友」に命を救った。
その日、彼女は籠を手に線路脇を歩きながら、向こうから走ってくる貨車を認めた。手前の線路には夢中で遊んでいる3人の子ども。「危ないよ。早く逃げてェー」と声を限りに叫ぶのだが、どうにも聞こえそうにない。このままでは3人とも轢き殺されてしまう。
「どうしよう。どうしよう。その時、『人民のために死ぬことは、(中国最高の霊山である)泰山よりさらに重い』という毛主席の教えを思い出す」。もちろん、線路に飛び込んで1人を助ける。ずんずん近づいてくる貨車。そこで、またまた戴チャンに勇気を奮い立たせたのは、「『我らは人民のために死ぬなら、まさに死に場所を得たというものだ』という毛主席の教えだった」。
最後の1人を救おうとしたが、「10歳の私に余力は残っていなかった」。それでも死力を尽くして助けた瞬間、無常にも疾走してくる貨車は彼女を巻き込んでしまった。病院に担ぎ込まれ手術だ。「痛い。だけど決して泣かないワ。だって毛主席の紅小兵だもん。どんな困難にだって音をあげないワ」。「毛主席語録を読めば全身に力が漲り、痛みなんか忘れちまうの」であった。
半月が過ぎれば10月1日。国慶節だ。その夜、彼女は人民大会堂で居並ぶ大人たちの最前列で、毛沢東の接見を受けるという飛びっきりの栄誉に浴す。「私は、この最高の幸せを永遠に記憶しておこう。毛主席の指導に従って永遠に革命を続けるの」と、日記に記した。
ここで思うのだが、その時から半世紀と4年が過ぎた。戴碧蓉が実在の人物で存命なら、彼女は60代半ばになっているはず。天安門での「最高の幸せを永遠に記憶し」、「毛主席の指導に従って永遠に革命を続け」ているに違いない。ならば習近平3期目突入を毛主席の再来と歓迎している・・・のだろうか。
『紅小兵報』社の編集で、お馴染みの上海人民出版社が出版した『向陽紅花 紅小兵革命故事選』は、巻頭に毛沢東揮毫の「児童們團結起来學習做新中國的新主人(子供らよ、団結して学習し新中国の新たな担い手となれ。なお旧漢字は原文のまま)」の文字を掲げ、「我ら中華民族は敵とは徹底して戦い抜く気概を持つ」子供たちの「一に苦労を厭わず、二に死を恐れない」姿を感動的に描く8つの「故事(ものがたり)」を収める。
第1話は「左手で『毛主席語録』を高く掲げ、右手の鞭で線路上に立ち往生する牛を急き立てて線路の外に押し出すが、驀進する汽車を避けきれずに犠牲になった農村の少女・朱小春チャンの英雄的な死を称える「向陽紅花」で、最終第8話は伝令となって共産党軍(八路軍)を手引きし、日本軍とその犬(「日本鬼子」と「漢奸隊伍」)を殲滅するうえで軍功を挙げた小柱頭クンの八面六臂の活躍を説く「小柱頭送情報」である。
どの故事も当時の共産党政権が求める“理想的な子供”を描いているわけだが、わけても興味深いのが上海の某病院小児専門病棟での“闘争”を描く「病房里的闘争」だろう。
入院している子供たちは「我ら毛主席の紅小兵は、病棟を毛沢東思想の学習・宣伝のための大教室にしよう」と立ち上がる。病室で子供の患者が毛沢東賛歌を唱ったり、『毛主席語録』を大声で読み上げたり。ある日、仲間の1人のおじいさんがこの光景を目にして「病院は静かに病気を治すところ」と注意する。すると子供たちは「こいつは劉少奇の仲間だ」と追い掛け捉まえる。かくて「我ら毛主席の紅小兵」の意気は蒼天を突き破る勢いだ。《QED》