――習近平少年の読書遍歴・・・“あの世代”を育てた書籍(習61)
かくて「10月18日のこの日は僕らの生涯で忘れ難い一日となった。この日午後2時19分53秒、僕らは偉大なる導師、偉大なる領袖、偉大なる統帥、偉大なる舵取りの毛主席との接見を果たした」。その時、紅衛兵の狂おしいばかりの熱気が天安門広場を覆った。
以上が、『一心為公的共産主義戦士蔡永祥』に納められた「我らは蔡永祥同志について行きます!」と題された紅衛兵による追悼文の一部だ。この「蔡永祥同志」こそ、我が身を犠牲にして列車転覆事故を未然に防いだと全国に喧伝され、「毛主席の真正の立派な戦士、プロレタリア文化大革命に身も心も捧げた守り手」なのである。
いま、いや当時においても彼の“死”の真相を詮索しても無意味だろう。66年10月といえば文革開始直後だ。なにか1つ、衝撃的な話題が欲しかったはずの文革派メディアにとって、願ったり叶ったり。申し分ない宣伝材料であったはずだ。
早速、『人民日報』(11月18日付)が「文化大革命の忠実な守り手」と題する社説を発表し、「蔡永祥同志」の英雄的行為を賞賛し、その壮絶な死を大々的に悼んでみせたのである。
解放軍機関紙『解放軍報』は、「一心を公に捧げた共産主義の戦士 ――身を捨てて紅衛兵専用列車を救った蔡永祥同志に」(10月30日)、「一瞬一秒を争う精神で世界観を改造せよ ――再び一心を公に捧げた共産主義の戦士・蔡永祥同志を論ず」(11月18日)、「革命戦士の頭には私心という雑念が入り込む余地は全く無い ――三たび一心を公に捧げた共産主義の戦士・蔡永祥同志を論ず」(12月1日)と異例の大キャンペーンを3回も張り、激越なアジテーションを繰り返し、全国各地で「蔡永祥同志」を顕彰し学習する運動を巻き起こそうと画策したのである。
『一心為公的共産主義戦士蔡永祥』は上記の社説、毛沢東への思慕の念と毛沢東思想学習の成果が綴られた蔡の日記の一部、全国から寄せられた追悼文を収め、毛沢東思想を学び毛沢東の立派な兵士たらんと奮闘努力する「蔡永祥同志」への賛歌で埋め尽くされる。
表紙を開くと「数限りない烈士は、人民の利益のために我われの進むべき道の前方で英雄的な犠牲を遂げる。彼らの旗を高く掲げ、彼らの犠牲を踏み越えて前進せよ!」と『毛主席語録』の一節が記されている。文革期に出版された書籍の巻頭に『毛主席語録』を掲げた相当に早い段階の1冊と思われる。初版発行32万冊。決して少ない部数ではない。
毛沢東が紅衛兵に与えた“万能の護符”である「造反有理」「革命無罪」は、どのように作用したのか。そのカラクリを『「紅衛兵」選集』(焦毅夫編 大陸出版社)が説いている。
この本は、文革初期に暴れ放題に暴れ回った紅衛兵たちが劉少奇・王光美夫妻を告発・断罪するために書きなぐった壁新聞やらパンフットを収めている。
当時、毛沢東を戴く文革派が「最大の当権派(実権派)」「中国のフルシチョフ」「彼」などと劉少奇を直接名指しせず婉曲に表現しているところからして、いずれ劉少奇は粛正される。そこで取り急ぎ劉少奇関連の文章を集めた――というのが、出版の意図だそうだ。
「見よ、劉少奇の醜悪な心の底を」「劉少奇叛徒集団を打倒せよ」「満腔の怒りをこめて、労働大盗賊の劉少奇を糾弾するぞ」「劉少奇の反革命のツラの皮を剥げ」「王光美は毛沢東思想に刃向かう大毒草だ」「地主階級の孝行息子・劉少奇の姿を暴露せよ」「劉少奇・王光美は『左』を装った『右』である」「造反の粉砕を目論む劉少奇・王光美を告発する」など、じつにおどろおどろしく、禍々しくも勇ましい表題が並ぶ。
当時、紅衛兵は毛沢東から「造反有理」「革命無罪」という護符を与えられていたから、当たるところ敵もなければ怖いものもなし。極論するなら自分が気に入らない人物を毛沢東の敵と決めつけ、つるし上げ、考えられる限りの悪罵を投げかけ、精神的に辱め、肉体的に苦痛を与え、嬲り殺した。文字通り“血祭り”にして気勢を挙げたのである。《QED》