――英国殖民地だった頃・・・香港での日々(香港209)
彼女と広州に住む姪との手紙の遣り取りを“仲介”したことから、文革期の中国とまでは拡大する積もりはないが、少なくとも広州地域における庶民生活の一端を垣間見せて貰った思いだ。曽妹を通して知った彼女と広州に住む親戚の“関係”は印象深い。
ある日、日本に荷物を送ろうと梱包していると、「ドレドレ何をしている」とばかりに近寄ってきた。それから梱包用に入手した厚手の紙を手に取って、「これはなんだい?」。これで荷物を包み紐で縛って日本に送ろうと思うと説明すると、「お前は世間を知らない」とばかりにニヤニヤしながら、「お前も、しょせんは日本仔だ。知恵が足りないなァ。いいかい、荷物というモノは紙ではなく布で包んで送るものに決まっている。そうすれば、荷物を受け取った相手は包んでいた布を使うことも出来るだろうに」
「ハイハイ。だけど、ここまで梱包しちゃったから」と。すると、「どうしようもないヤツだ。物事が解っていない」などとブツブツ言いながら、向こうへ行ってしまった。
そう言われれば彼女は時に洋服生地、時に何枚ものタオルを縫い合わせて作った大きな布で小包を梱包し、セッセと広州の親戚に送っていたっけ。荷物の中身は多くは中国製の食用油であり、梱包した布もタオルも中国製だったように思う。沙田駅前の墟市で中国製の缶入り食用油や布やタオルを買って、広州の身内に送っていた。つまり中国製品が香港に渡り、香港の人々に買われ、それが中国にUターンして消費されていたことになる。
曽妹は春節を1か月半ほど前にする時期になると、独り身の生活では使い切れないほどの日用品を買い込んだ。毎年そうだった。そんな大量の品々を、どうやって消費するのか。
じつは毎年春節を挟んだ1か月ほど、彼女は家を空けることが常だった。親戚と春節を祝うために広州に出掛けていたのである。
その出で立ちがモノすごい。何枚も上着を重ね着し、ズボンの上にまたズボンである。モッコモッコに着ぶくれた姿で、様々な生活必需品を天秤棒の前と後に振り分けて、勇躍と広九鉄道に乗り込む。あの姿で、よく歩けるモノだと感心するばかり。春節を前にした広九鉄道の車両が超着ぶくれした乗客ですし詰め状態になるのは、毎年のことだった。
誰もが広九鉄道で羅湖まで行って、そこで深?河に架かる橋を歩いて渡り、深?駅で広州行き列車に乗り込む。広州へ、広州へ。さらに広州から親戚の待つ田舎へ、である。
春節が過ぎてしばらくすると、彼らはUターンして香港に戻ってくる。その姿は出掛けた時とは大違で、着の身着のままに近い。身につけていった大量の衣服は脱いで、天秤棒で担いだ大量の日用雑貨と共にキレイさっぱりと親戚に置いてくる。あれほど大量の荷物を運んだ天秤棒にブラ下がっているものは、せいぜい故郷特産の干した鶏、臘鴨、それに乾燥雪菜など。当時は、この程度でも貧しい親戚からすれば精一杯のお礼だったはずだ。
これでは出掛けた時の“勇姿”とは金銭的に釣り合いが取れないはずだが、なぜか彼らの顔はニコヤカ。曽妹にしても事情は同じ。疲れた様子をみせはしても、2、3日が過ぎると、また以前のようなオ節介な曽妹に戻っていた。
当時の中国は四人組の絶頂期であり、孔子(儒教)や『水滸伝』への批判運動が展開されていた。内外のメデイアにしても、表面的で公式的な中国報道はあったにせよ、四人組政治の下での庶民の姿――この段階で、「上に政策あれば下に対策あり」のメカニズムが動き始める――に関しては知ることはできなかった。だが幸いなことに、曽妹との日々から「下に対策あり」の「対策」の一端を窺うことが出来たわけだ。
「上」が掲げる「自力更生」という「政策」に、「下」は香港の血縁からの手助けという「対策」で対抗した。国外の血縁によるカネやモノが文革時代の貧しく混乱した「下」の生活を支えたなら、「下」による面従腹背式の「自力更生」では・・・アッパレ!《QED》