日本の朝鮮統治で「悪名高い」と言われるのはやはり「創氏改名」で、朝鮮名を奪って日本人のような氏名を名乗るよう強制したと言われてきた。現在ではこのような事実誤認に基づく曲解はあまり見られず理解が深まったようだが、いまだにそのように思い込んでいる人もいる。
実際は朝鮮の「姓」を奪うような制度ではなく、朝鮮の「姓・名」を残した上での日本風の「氏」の創設であり改名だった。また、日本風の「氏」を申請しない朝鮮人はいままでの「姓」を「氏」として使うことができた。氏の創設こそ法的強制力はあったものの、日本風の「氏」の創設や名の改名は強制ではなかった。
ましてや、創氏改名の発端は、満州において商売をする朝鮮人の間には朝鮮名のままだと商売がやりにくいので日本名を名乗りたいという声が強かったからに他ならない。
一方、朝鮮と同時に台湾でも実施されたのは「改姓名」で、台湾の改姓名を朝鮮における創氏改名と同じだと誤解している人がいまだにいる。
創氏改名と改姓名の最大の違いは、創氏改名が申請制なのに対して改姓名が許可制だったことだろう。朝鮮では約80%が創氏改名し、それに対して台湾の改姓名は2%ほどしか行われなかったという違いも見逃せない。
なぜ朝鮮と台湾ではこのような違いが出てきたのか、創氏改名と改姓名の違いについて、産経新聞文化部編集委員の喜多由浩(きた・よしひろ)記者が連載中の「台湾日本人物語 統治時代の真実」で明らかにしている。熟読いただきたい。
—————————————————————————————–朝鮮、8割の「創氏改名」 台湾、数%の「改姓名」【産経新聞「台湾日本人物語 統治時代の真実(46)」:2021年12月22日】https://www.sankei.com/article/20211222-NYGUZPORGJOTJJ45UUPVJFOUZQ/
日本統治下の朝鮮で実施された「創氏改名(そうしかいめい)」は現代の韓国で?日帝の悪行?の代表格として、やり玉に挙げられている。ホントにそうだろうか?
昭和15(1940)年から実施されたこの制度が、日中戦争(昭和12年〜)以降、外地でも順次導入されていった皇民化政策の一環であったことは間違いないだろう。戦時下の非常時に、内鮮一体となって、戦い抜くという態勢を整える─おかしいことではない。
名実ともに「日本人と同じ扱い」をしてほしい…それは多くの朝鮮人が望んでいたことだ。13年から朝鮮で実施された陸軍特別志願兵制度に朝鮮人の若者の応募が殺到し、18年度には約50倍もの競争倍率に達したことは前回(8日付)書いた通りである。
そんな例は他にもある。7年の満洲国建国以降、朝鮮でも?満州ブーム?が起き、多くの朝鮮人の農民や商人が新天地を目指した。彼らは一様に?日本人?を名乗りたがり、他民族(漢、満、蒙など)より優位に立とうとした。
満洲国軍の士官を養成する軍官学校には、日、鮮を合わせた5族の若者が入校する。漢民族と?犬猿の仲?であった蒙、いわゆるモンゴル族だけは最初から別の学校だったが、他の4民族は同じ学校に入校した上で、日本語能力によって「日系」と漢、満、鮮による「満系」に分けられた。
だが、この分け方に鮮系生徒からクレームがつく。「われわれ(鮮系)も日本人ではないか。軍官学校でも日系に入れてほしい」という要求であった。というのも、満系の中で「鮮」は「漢」に見下されてしまう。日系に入れば、逆に「漢」を見下すことができるというわけだ。強者におもねる「事大主義」の伝統が染みついた朝鮮人らしい発想ではないか。
この満洲国軍軍官学校の2期生として入校した朴正熙(パク・チョンヒ)(戦後、韓国大統領)はそこで予科を終えた後、成績優秀者の特権で、本科は日本の陸軍士官学校へ入学している。朴の他にも満洲国軍軍官学校、日本の陸軍士官学校へ入った朝鮮人は多かった。
◆「姓」は変わらない
一方で、創氏改名ほど、誤解や意図的な曲解をされている制度もない。
「創氏改名」とあるように、変える(新たに創る)のは「氏」であって「姓」ではない。一族のルーツを表す「姓」は儒教文化圏の北東アジアでは極めて重要なもので簡単に変えるわけにはいかないからだ。
つまり、「姓」はそのまま残された上で、家族を表す日本風の「氏」を新たに創る。申請をしない朝鮮人は、従来の「姓」を「氏」として使うことができた。実際、陸軍中将になった洪思翊(こう・しよく)や「東洋の舞姫」として、世界の舞台で活躍した舞踊家の崔承喜(さい・しょうき)も日本風の「氏」に変えていない。
創氏改名に応じた朝鮮人は約8割に上っている。皇民化政策の下で「推奨」はされただろうが、日本風の創氏は強制ではなかった。当時の空気として、日本人と同じように扱ってほしいという朝鮮人が多かったと見るのが自然だろう。
◆進まなかった台湾
台湾でも15年から「改姓名」制度が導入されている。ただ、朝鮮の創氏改名とは少し中身が違う。
台湾総督官房情報課編の『大東亜戦争と台湾(昭和18年版)』の「改姓名」の項を見てみよう。
それによれば、《本島(台湾)人の改姓名は方針としては既に戸口規則の制定された明治三十八年当時より認められていた》こと。《支那事変(日中戦争)勃発以来、本島住民は聖戦の意義と本島の使命をよく認識…日本人であるという事の幸福を切実に感得し…》などと前置きした上でこう記されている。朝鮮の制度との違いだ。
《朝鮮の創氏制と事情を異にし、誰も彼もが希望すれば悉(ことごと)く許されるという訳(わけ)ではなく皇民化という点を標準として、一定の条件の下に改姓名を許可せられる》とある。そして、その条件とは「国語(日本語)常用の家庭」、さらに「皇国民として資源涵養(かんよう)に努むるの念厚く且(かつ)公共的精神に富める者」とあった。
つまり、総督府にとって「模範的な人間(日本人)」しか許可しない方針だったということだろう。さらに手続きには、費用はかからないものの、戸口抄本や財産登記の書類の提出などが求められていた。
従来、日本風の改姓名の希望が本島人から寄せられていたことから台湾総督府はむしろ「条件」を付けることでセーブしたようにもみえるが、煩雑な手続きもあって、改姓名の希望者は予想を下回った。
総督府は、手続きの簡素化や「国語常用」の要件緩和を進めたが、導入から3年たっても、応募者は十数万にとどまった。台湾人の人口が約580万人(18年)だから、全体のわずか数%にすぎない。約8割の朝鮮とは「大きな差」が出たわけである。
◆「一族主義」の重し
なぜ、台湾では日本風の改姓名が進まなかったのか。確かに、朝鮮とは違う許可制であったことや面倒な手続きがネックになった面はあるのだろう。総督府が、その条件を厳格に審査したためではないか、との見方もある。
もうひとつ、朝鮮との違いとして、台湾の改姓名では「姓」と「氏」の区別が明確になされていないことに注目したい。
すでに書いたように、一族主義を重んじる儒教文化圏で「姓」はその一員である拠り所であり、「姓」の変更は一族との訣別を意味する。世界中に及ぶ一族の相互扶助のネットワークから排除されるだけではない。死後も一族の墓所に入ることを拒絶されるのである。まさに死活問題だ。多くの台湾人が逡巡したのも理解できよう。
これは、「日本人と同じように扱ってほしい」という意識とは別である。実際、「名」の方は日本風への移行が進んでいた。
結局、こうした制度は朝鮮も含めて、日本人の「いらぬおせっかい」であったというべきか。
=敬称略(編集委員 喜多由浩)
──────────────────────────────────────※この記事はメルマガ「日台共栄」のバックナンバーです。