――英国殖民地だった頃・・・香港での日々(香港138)
『香港華資本財団 1841-1997』に収められた1980年の経済統計に基づくと、香港全体の製造業者(工場)は45,407社、従業員総数は86万人余。前者の97%を、後者の90%を占めていることからも分かるように、この時期になると華資は圧倒的優位に立った。
代表的製造業者を挙げておくと香港紡織、南海紡織、南豊紡織、中国染廠、永新企業、南聯実業、麗新製衣、長江製衣、万泰製衣、開達実業、善美環球、捷和集団、荘士集団、宝源光学、金山実業、徳昌電機、南順集団、震雄集団など。アパレル産業を中心に、香港の製造業は発展した。とはいえ「地産致富」と言う蓄財術は漢族企業家のDNA。だから製造業成功の勢いのままに、不動産ビジネスに雪崩れ込むことになる.
次に海運業を見ておきたい。
もちろん1950年代以前、華資は微々たるものであり、海運業はJardine & Matheson(怡和洋行)やSwire & Son(太古洋行)などのイギリス資本に由る完全制圧状態だった。だが50年代以降、香港を含む東アジア地域、ことに日本の経済が上昇軌道に乗るようになると、香港の海運業界は活況をみせはじめる。
その先頭に立ったのが包玉剛(Y・K・パオ)の環球航運、董浩雲の東方海外、趙従衍の華光航業、曹文錦の万邦航運、スタンレー・ホーの信徳集団だった。世界最大を誇った当時の環球航運は202隻を保有し、2,050万トンに及んだ総トン数は、当時のソ連が持つ商船全体に匹敵したほど。最盛期の70年代末から80年代初にかけての時期、環球航運、東方海外、華光航業を中核とする華資海運会社は、香港のイギリス資本の海運会社を遥かに凌駕する実力を備えていた。
次いで不動産ビジネス。当初はイギリス資本と併存状況だったが、最終的には完全に凌駕したのである。すでに指摘しておいたように不動産ビジネスは伝統的に華資の得意分野だった。当初は古くからの商法である「買楼収租」、つまりで建物を買って賃料で稼ぐ方式が主流であったが、60年代以降は経済全体が右肩上がりの成長を見せるようになる一方で、中国からの難民の流入などが重なり全体的に物件が不足し、不動産の需給バランスが崩れはじめる。加えて香港暴動で不動産相場が値崩れを起こす。危機の機は商機の機なのだ。
香港の動かし難い絶対的条件は圧倒的な土地不足である。社会が安定し、経済が活況を呈し、人口が増加すれば不動産取引は必然的に売り手市場に。72年前後には上げ相場に転ずる。あるいはニクソン訪中によって香港の招来への不安が払拭されたことも、その一因になっているのではないか。
かくして将来性に賭け、異業種からも大量の資金を元手にして不動産ビジネスへの参入がはじまり、すでに2253回で見たように多くの企業が創業し、上場することとなった。
ここで参考までに、李嘉誠の手法を簡単に追っておくことにする。
香港フラワーで財を成した後に不動産ビジネスの将来性に賭けた彼は、1958年、官庁や金融機関が連なる香港島の中心部から遠く離れた庶民街の北角(この街にもよく通ったものだ)に「長江工業大廈」と名付けた12階建ての工場ビルを建設する。製造業拡大を見越しての工場である。土地がない分、工場を重ねてビルにしてしまった。これが狙い通りの大当たり。まさに教科書通りの「風険投資(ハイリスク・ハイリターン)」である。
以後、香港フラワーが産み出した潤沢な資金を不動産ビジネスに次々に投入する。北角に続き、柴湾、新界の元朗などに次々に工場ビルを建設してゆく。
当時、多くの不動産業者は自己資金(30%)に銀行からの借り入れ(70%)を加えて経営を続けていたので、不動産価格の低迷は直ちに経営を圧迫し、最悪の場合は倒産も。だが李嘉誠は銀行を頼る必要がないほどに潤沢な自己資金を擁していたのである。《QED》