李登輝の遺志はどこへ?  ロバート・D・エルドリッヂ(政治学者)

 李登輝元総統が身罷られて1ヵ月になんなんとする。これまでは追悼記帳や献花、国葬などに関するメディア報道が主だったが、月刊誌などに識者による李元総統の軌跡を踏まえた論評がそろそろ掲載されはじめた。

 米国出身の政治学者でエルドリッヂ研究所所長のロバート・D・エルドリッヂ氏は、安全保障や国際問題の専門家であるとともに、台湾問題への造詣も深い。本会が台湾で開催している「李登輝学校研修団(正式名称:日本李登輝学校台湾研修団)でも講師を務めていただいたことがある。

 本誌でも8月17日から始まった米海軍が主宰する「リムパック」(環太平洋合同演習:Rim of the Pacific Exercise)に台湾が招待されるかどうかに注目してきたが、見送られた。

 エルドリッヂ氏は、台湾の地政学的重要性と李元総統の台湾民主化への軌跡をたどりつつ、このリムパックにも言及し、絶好のチャンスだったにもかかわらず、米国の決定は「本当に、近視眼的な決定だった」と批判的だ。

 一方、日本もまた「いまだに、安倍晋三政権が『台湾寄り』になっていない」と疑問を呈し、「合計9年間の政権で、台湾政策で一体何が抱負だったのか、と一度聞いてみたい」と述べる。

 そして「今こそ、日米台の連携を強化すべきだ。それは、日本やアメリカで学んだ経験があり、民主主義の真の価値と、国のアイデンティの本当の意味を教えてくれた、故・李登輝元総統に恩返し」すべきだと訴えている。

 日米台の連携強化、中国の最近の軍事行動を見れば、特に安全保障に関しては喫緊の課題だ。昨年、本会が政策提言として発表した「『日台交流基本法』を早急に制定せよ」も参照いただきたい。

*2019政策提言「『日台交流基本法』を早急に制定せよ」(2019年6月30日) http://www.ritouki.jp/index.php/info/20190630/

—————————————————————————————–李登輝の遺志はどこへ? 安倍「非台湾寄り」政権では日米台共に沈む中国を前に自由と独立を守ることの意味ロバート・D・エルドリッヂ(政治学者)【現代ビジネス:2020年8月24日】https://gendai.ismedia.jp/articles/-/75066

◆大きな死、大きな足跡

 ご存じのように、7月30日、台湾(中華民国)の元指導者で、初めて選挙によって国民に選ばれた総統であった李登輝が97歳で亡くなった。

 彼の死は台湾にとって大きな損失であっただけでなく、日本、インド太平洋地域、そして世界の民主主義国家にとっても大損失となった。

 李登輝は、真の為政者であった。台湾に民主主義をもたらした男でもあった。彼の人生は、そのドキュメンタリーの題名のように「哲学者王」でもあった。

 そして李登輝は、同時に、おそらく世界で最も偉大な「綱渡り芸人」だった。

 彼が生まれる28年前の1895年に、彼の出身地の台湾を統治下においた日本との関係をはじめ、学問と軍、研究と政府、共産党と国民党、自立と外圧、台湾とアメリカ、民主主義と独裁政権の間で歩く必要があったからだ。

 そして、彼は見事なバランスでこの綱を渡り切り、世界中から最大級の尊敬を集めた。台湾の人々をはじめ、台湾を応援する私たち国外の支援者にとって現在の最大の課題は、李元総統個人に対してだったこの尊敬を、彼が残した民主主義国家に対するものとすることだ。

◆「1つの中国」は決定的に否定された

 他の国ならば難しいはずはない。だが、台湾は過去50年間、世界で非常に困難な立場に置かれ続けてきた。

 国民党が台湾に政権を移してから長年、一党独裁体制で、有権者による総統選挙が初めて行われたのは1996年だった。

 この時、台湾を大陸の中国政権の一部であると主張する中国政府は、台湾の海岸付近でミサイル発射実験を行うなど、大きな高度な政治的、経済的、外交的、軍事的圧力をかけた。

 今年1月の総統選挙でも行われたが、ありがたいことにこの圧力は裏目に出た。

 実際には中国の選挙への干渉は、過去においては、逆に李登輝総統に追い風となり2期目に導き、今回、彼の弟子と呼んでいい民主進歩党の蔡英文氏に対しても同じ効果をもたらしたが。

 李総統は中国の圧力に屈せず、台湾国民に力と自信を与え、そのことが「台湾独立」の道筋を作ると強く信じられていたので、2001年に、国民党は党籍剥奪の処分おこなった。

 その国民党、つまり蒋介石の中華民国の執権党であった国民党は、中国本土で結党され、内戦で負けた後、台湾に逃げ、一党支配で中華民国の政府が再構成された。しかし、国民党はあきらめずに大陸との統一を目指してきた。

 つまり、国民党は中華人民共和国と同じく、台湾と大陸は「1つの中国」であるという立場をとっている。皮肉にも、本土を支配する中国共産党との長いライバル関係にもかかわらず、「台湾独立反対」という点で今では親中党と見られている。

 中国のこのスタンスは、直近の総統選挙でも最も強く打ち出された。台湾に圧力をかけただけでなく、さらに悪いことに、中国の支配下にある香港の抗議者に対して抑圧を加えた。

 この香港での暴力を見て、台湾の有権者は、もし中国の一部に吸収された場合、何が起こるかをリアルタイムで見ることになった。おかげで「今の香港は明日の台湾」という怖いけど現実性に富むスローガンは世界で広がった。(1月21日公開「中国の次なる圧力は…国際社会が台湾を守るこれだけの方法」参照)

◆李登輝が示した道筋

 筆者は選挙の直前の昨年11月と12月に、2回ほど台湾に行っていた。どこに行っても、だれに会っても、この件については異口同音だった。

 現在は、李登輝総統が民主的な選挙を実施した1996年の状況とは大きく異なっている。

 当時、香港はまだ中国に返還されていなかった(1984年の英中共同声明に基づいて1997年の返還)。

 同声明に中国が「1国2制度」を尊重するという約束にもかかわらず、(予定より早く)香港における民主主義、法の支配に対して押しつぶしつつある。

 民主主義のために懸命に戦ってきた今年の台湾の有権者は、それに対してはっきりと「No」と言った。

 台湾は決して自由意志で中華人民共和国と統一しない。それは国家的な自殺行為になることを、特に今になってわかっているからだ。

 台湾の有権者は、民主主義と国家のアイデンティティを重要視している。また国民は中国共産党の下で、中国という国がどうなっているのかが十分に知っている。その中で李登輝が残した最大の功績は、台湾の国民に、自由で民主的で「独立」することが可能だということを示したことなのだ。

◆世界が立つべき位置

 李登輝の台湾についての構想を支えていくべきなのは誰か。それは世界であり、特に日本と米国である。

 気を付けなければならないのは、上記で「独立」と書いているのは、中華人民共和国からの「独立」の意味ではない。

 元々、中華人民共和国の支配下に置かれたことはない。また、台湾は、そもそも戦後、実質上、独立国家として歩んできた。その存在(中華民国として)は、当初、国連において認められていた。1971年に台湾の後ろ盾になっていたアメリカが中華人民共和国を承認したことで、立場が逆転していた。

 李登輝が選挙で総統として選ばれた時から、台湾は民主主義国家として再出発した。そしてその直前に、北京で発生した、学生による民主化運動への弾圧、いわゆる天安門事件を起こした中国と決別していた。

 言い換えれば、台湾が中国の一部であることは神話に過ぎない。

 しかし、世界各国は台頭する中国との関係を重視して、台湾を国家として承認し、外交関係を持つ国々が毎年減っている。誠に残念だ。

 だからこそ、筆者は、アメリカをはじめ、日本は民主主義の国家であり、法の支配、人権、自由などを尊重している台湾を再び国家として承認し、通常の外交関係を持つべきだ。つまり、台湾に関してそもそも発言権がない中国にこれ以上遠慮すべきではない。

◆まだ及び腰・RIMPAC招待せず

 その意味で、米海軍が主宰する今回の多国海軍演習・RIMPAC(環太平洋合同演習)のオブザーバーとして台湾の参加の見送り(招待しないこと)は本当に、近視眼的な決定だった。

 現在、中国に対し、アメリカは相当な圧力をかけており、絶好のチャンスであったが、必要以上に刺激したくなかったと思われる。

 もちろん、米海軍は呼びたかったのであるが、国防省で、親中派の政治任命の国防次官補が国防長官に説得したと言われている。

 台湾を招待しないという決定に対して、日本はどう反応したかはわからないが、抗議すべきだった。

 しかし、前述した通り、遠慮することが中国の主張に口実を与えてしまう。もし、米中の和解があれば(特に、米民主党のジョセフ・バイデン候補が今年11月の大統領選で勝てば)、台湾を次のRIMPACに招待することはできなくなる。

 もう1つの理由で招待しなかったことで残念なことがあった。昨年のRIMPACには25カ国が参加したが、今月17日よりスタートした今回の合同演習には、新型コロナの感染リスクを懸念して、実際に参加している国々は、その半分以下。

 コロナ対策で最も評価されている台湾(たった7名の死者しか出ていなく、感染者は合計486人)は、オブザーバーさえとして参加できなかったため、各国の海軍(アメリカ、日本、韓国、カナダ、オーストラリア、フィリピン、シンガポール、ニュージーランド、ブルネイ及びフランス)にその成功裡を教えるチャンスがなくなった。また、それらの国々にとっても損失だ。

 また、合同演習の主目的は、地域の安定と協力を醸成するためだが、民主主義国家である台湾が参加できないというのでは、その目標達成には程遠しことになる。台湾海軍との情報共有、相互運用性、そして人的信頼関係の構築は急務であるからだ。

◆事ここに及んでも安倍政権は「台湾寄り」ではない

 台湾の存続は、地域全体をはじめ、特に日本とアメリカにとって欠かせないものだ。

 もし中国によって台湾が失われたら、東南アジア、オーストラリア、インド洋、ペルシャ湾、アフリカ、ヨーロッパへと続くシーレーンが断たれ、日本の存続も確実に危なくなる。

 また、尖閣諸島が奪われてしまうと、南西諸島全体が不安定になり、日米との連携に支障が来たし、台湾も確実にダメになる。

 まさに、日米台は運命共同体だ。そのため、三者の間で安全保障協力体制を進めるべきだ。

 筆者は2018年の今ごろ、日本版の台湾関係法の制定を(『正論』で)提言(*註)したが、残念ながら、いまだに、安倍晋三政権が「台湾寄り」になっていない。

*編集部註:「日本版『台湾関係法』制定を今こそ」(月刊「正論」2018年9月号)

 その時あえて訴えた理由は、いくつかあるが、その1つは、日米台という三角を考えた場合、日米同盟が存在し、米台の準同盟関係である「台湾関係法」があるものの、日本と台湾の間の安全保障関係が何もない。つまり、三角形の一番弱い部分になっていることだ。

 もう1つの理由は、2019年1月は、米国での台湾関係法が制定してからちょうど40周年で、そのタイミングにあわせたかったからだ。2018年の秋から、国会で審議し、新年で日本も台湾関係法のようなものは可決できると促したかった。

 そして、蔡総統と米国のドナルド・トランプ大統領の2人とも、両国の制度上、2020年の選挙に臨んでおり、安倍総理も遅くとも2021年までと考えているようなので、この3名がいる間に、台湾と日本がより接近させる必要があると思ったからだ。

 蔡総統は幸いに無事に再選され、この調子だとすると、トランプも再選されそうだ。

 だが、トランプが再選されても、台湾が対中政策の「梃子」や「道具」とするという、歴史的な扱い方を、私はやめてほしいと思う。

 さらに大きな問題は、ポスト安倍だ。というより、先送りする傾向のある安倍総理の慎重的な姿勢。合計9年間の政権で、台湾政策で一体何が抱負だったのか、と一度聞いてみたい。

 私は、自公連立政権がある限り、日本は中国に対抗しようとないとみている。公明党は、結党以来、親中的で、しかも、第2次安倍内閣が誕生した2012年12月以来、海上保安庁を管轄する国土交通大臣は一貫して公明党出身者だ。

 利害関係なのか、それとも、中国を刺激しないために、海上保安庁を制覇しようとしているのかわからないが、この不透明な人事は気になる。

 また不思議に、自民党にも中国寄りの幹部がいる。しかも、ポスト安倍の主要な候補者たちは、中国寄りとみなされており、自国、日本の国益に反して台湾から離れていく可能性が否定できない。

 今こそ、日米台の連携を強化すべきだ。それは、日本やアメリカで学んだ経験があり、民主主義の真の価値と、国のアイデンティの本当の意味を教えてくれた、故・李登輝元総統に恩返しすべきことではないだろうか。

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