武漢肺炎を巡っては行政の効率性が問われ、中国のような専制独裁国家の方が民主主義国家に優るのではないかという見方が示されたことがある。効率性という点ではその通りだろう。独裁国家では、基本的人権や言論の自由などとは無関係に制約を押し付けられるからだ。
今回に限らず、国家の非常時や緊急時に、民主主義国家においては国民の基本的人権が制限されるのは致し方ない。要は、国民がその制限を受け入れられるポイントはどこかという点にあるように思われる。恐らくそれは、国家や政府指導者を信頼できるか否かにある。
その点で台湾は、蔡英文・総統や陳建仁・副総統、陳時中・衛生福利部長などの指導者が国民の信頼の下、民主主義国家こそより効率的に対応できることを示し得たのではないかと思われる。国民の信頼を勝ち得るのは容易ではない。台湾はどうやって成し遂げたのか。
折しも、台湾出身で「ニッポン・ドットコム」スタッフライターをつとめる鄭仲嵐氏が「武漢肺炎を巡る民主と独裁」というテーマで、台湾の蔡英文政権が台湾の人々から信頼を勝ち得ていったのか、これまでの民主的な対応について詳しく分析している。下記に紹介したい。
なお、原題は「台湾はいかに民主的に新型コロナウイルスとの防疫戦を展開しているのか」だったが「台湾が武漢肺炎への民主的取り込みに成功しているワケ」と改題したことをお断りしたい。
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台湾はいかに民主的に新型コロナウイルスとの防疫戦を展開しているのか 鄭仲嵐(ニッポンドットコム多言語部スタッフライター・編集者)【nippon.com:2020年4月12日】https://www.nippon.com/ja/japan-topics/g00853/
◆マスク・パニックを短期間で克服した台湾
台湾の蔡英文総統は3月30日、北部のマスク用不織布製造工場を視察し、4月の1日当たり生産量を2000万枚とする目標を掲げた。台湾のマスク生産は、3月9日時点で1000万枚だったので、短期間に倍増するという挑戦的な数字に多くの人は驚いた。蔡英文総統はその後、米国に200万枚、欧州各国には計700万枚、国交のある国には100万枚のマスクを援助する方針も打ち出した。
1月末に感染症が爆発的に拡大した時期に、台湾ではマスクが不足して「マスク・パニック」が発生した。しかし、その2カ月後にはマスクの安定供給体制が整ったことが、民心を安定させる最も重要な要因になっている。政府はメーカー各社に協力を要請し、「マスク国家チーム」を結成。短期間のうちに生産ラインが92本に達し、44日間のうちに生産能力は13倍になった。さらに、マスクの所有権を国に移し、購入量制限を導入した。この手際の良さは、欧米諸国や日本にとっては、信じられないことだったに違いない。
さらに、政府は早い段階で、デジタル技術を活用し、リアルタイムで各販売店のマスクの在庫の数を把握するアプリを開発。これは、国内外の多くのメディアやネット・ユーザーの関心を集めた。当初はICカード式の保険証と連動させ、1人当たり週2枚までの購入制限が設定されたが、台湾政府は自信に満ちた調子で、4月9日からは14日ごとに、成人用マスク9枚と児童用マスク10枚を購入できると宣言した。さらには、2カ月間で30枚までの制限付きではあるが、禁止されていた国外へのマスク郵送を改めて解禁した。台湾政府にとっての弱みだったマスク不足は、逆に強みになっているのだ。
多くの国は、今もマスク不足が続いている。日本では、安倍晋三首相が2月29日の記者会見で、「3月にはマスクの供給量を6億枚に引き上げる」と明言したのだが、3月末になっても、スーパーやドラッグ・ストアのマスクの棚は空っぽで「入荷予定未定」の貼り紙がしてある。ツイッター上では「消えた6億枚のマスクを探せ」が、検索のホットワードになった。そればかりか、医療現場や高齢者福祉施設からもマスク不足の悲鳴が上がるほどだ。
◆“震源地”中国が救援者となる皮肉
ちょうどこの頃、中国は日本に対して信じがたい援助の手を差し延べた。まだ、中国で爆発的な流行が始まった時期の日本から中国への支援の「返礼」として、マスクや医療物資を日本に贈ったのだ。
中国はウイルスの発生源であり、感染症が激増した初期には意図的に情報を隠ぺいし、国際社会に真実を伝えなかったと批判されている。世界保健機関(WHO)への情報提供もしばしば遅れた。多くの西側メディアが、中国がWHOを操縦した結果、事態の重大さが各国に正しく伝わらず、世界的まん延を防ぐための機会を逸したのではいかと疑っている。
正体不明のまま感染症は中国の外へと拡散し、3月初めにはイランやイタリアで感染爆発が相次いで発生して、「陥落状態」となった。すると、中国は「救援者」の立場で、医療面での援助を申し出た。さらに、中国で感染が確認された8万1000人余の患者のうち、7万5000人が治癒して退院したなどのデータを提供。その信ぴょう性を確認する手立てはないのだが、世界各国の指導者は自国に降りかかった災難を振り払うために、なりふり構わず、中国からの一方的な提案と援助を受け入れるしかなかった。
◆国民への協力要請には限界?
そんな中で、「民主政治には明らかに欠陥がある。中国のような独裁制の方が、状況をコントロールするには効果的だ」といったうがった見方さえも出ている。
次々に「陥落」していった欧米諸国は、当初は感染拡大を阻止するため国民のモラルに訴えるしかなかったのだ。民衆には「外出しないように」と呼びかけるだけで、封鎖もさほど厳格なものではなかった。それに対して中国は、早い時期から都市を鉄のカーテンで封鎖し、外出を認めず、マンションに閉じ込めることで、「最高に効率的に」感染の拡大に歯止めを掛けた。
欧米の民主体制国家が今回、ひどい目にあったことは事実だ。そしてそのことは、中国の「対外大宣伝」の材料の一つになった。
◆SARS流行時、中国との交渉担当だった蔡総統
一方で、台湾は中国から100キロも離れていないにも関わらず、感染者数の増加をさほど深刻ではないレベルに抑えている。新型コロナウイルス肺炎が中国武漢市だけで発生していた2019年12月末の段階で、台湾に到着した航空機利用客の機内検疫を開始。武漢が都市封鎖を宣言する前の1月末には、航空便の運航停止を率先して実施した。それから2カ月あまりが経過したが、欧州や日本への航空便の運航停止がやや遅かったことを除けば、台湾当局にほとんど失点はなかったと言える。むしろ、ニュージーランドや日本の政治家からは「台湾に学ぶべきだ」との声が上がるほどだ。
中国で爆発的な感染拡大が始まったのは、蔡英文総統が高得票で再任を決めた2020年1月11日の総統選から間もない時期だった。台湾は2003年の重症性呼吸器症候群(SARS)の流行では、大きな痛手を受けている。蔡総統は当時、中国大陸部関連の業務を担当する「大陸委員会」の主任委員で、陳建仁副総統は衛生署長だった。2人は感染症防止の最前線で中国当局と何度も交渉した経験を持つ。今回は、その時に鍛えられた突発事態への対応能力が生きたのだ。当初から、「敵を深く広く知る」との方針を立て、医療専門家の判断を仰ぎ、マスク生産ラインの急ピッチでの増設をまたたく間に進めた。
民主主義はしばしば、政策決定が遅すぎて非効率と批判される。日本や欧米では、今回、この弱点が露呈したが、蔡英文政権は感染症防止の戦いで、相当に迅速な対応を取った。その象徴とも言えるのが、絶対の信頼を置く陳時中衛生福利部長(衛生福祉相)を感染症対策の指揮センターのトップに据え、多くの権限を与えたことだ。政府は、陳時中部長や疾病管制署を信頼し、重要な政策の発表は彼らに任せた。
欧米や日本では、大統領や首相が政策を発表し、国民にメッセージを送った。しかし、医療、とりわけ感染症の専門家ではない政治家に、世界が巻き込まれている事態と今後なすべきことを分かりやすく説明することはできない。台湾の指揮官となった陳時中部長はもともとは歯科医であり、医療の専門知識と患者に接するような分かりやすく説得力のある言葉で民衆に語り掛けた。
政府上層部も、手柄を取られるなどといった心配はせずに、専門性を完全に尊重した。台湾テレビ局のTVBSが実施した世論調査では、陳時中部長の支持率が91%に達した。世論調査でここまで高い数字が出ることは、極めて珍しいことだ。
◆デジタル技術をフル活用
また、デジタル技術の活用で、情報の透明化を図ったことも、民主主義・台湾の感染症との戦いを象徴するものだ。テレビのニュースは、長い会見のほんの一部分を編集して放送するだけで、政府側のメッセージが全て伝わるわけではない。今回は政府側が全過程を動画配信し、さらに陳時中衛生部長や当局側スタッフは、質問する記者が納得するまで回答した。日本で、質問したい記者が手を挙げていても、当局側が会見を打ち切るのとは違っていた。多くのネット・ユーザーは動画配信を通じて、記者の質問が専門性を備えたものであるか、当局側の回答が妥当であるかを、チェックすることができた。
さらに、政府はツイッターやフェイスブックも有効活用して、民衆に直接メッセージを伝えることができた。英語での情報発信は、外国メディアにとっての最良の素材となった。蔡英文総統のツイッターは、人目を引く画像と分かりやすいキャッチフレーズで、外国の人にもメッセージが伝わるように工夫されている。自らの書き込みによる親しみを持てる対話感覚とあいまって、シェア数も大幅に増えた。台湾政府は感染症対策の広報戦略で、空前の成功を収めたと言ってよい。
独裁国家は人民の感情に無関心でいられる。しかし民主政治体制においては、常に民意を意識し、臨機応変であらねばならない。台湾は、長きにわたって独裁統治下に置かれた後に、ようやく、民主的な直接選挙制度に移行した。今も、中国という独裁大国と隣り合わせ、戦々恐々としながら共存している。台湾の民主主義の歴史はわずか30年間だが、台湾の民主の内面的な力は、異常なほどに強固だ。今回の肺炎の感染拡大抑止では、改めてそのことが顕在化した。ただし、台湾が示した「高効率」には賛否両論が出た。
◆行政の厳しさは行き過ぎでないのか
ただし、台湾が示した「高効率」には賛否両論があり、この現状を危ぐする声も上がっているのも事実だ。感染症拡大阻止の成功が、民主的価値が感情に左右されるポピュリズムに向かってはいないか、ということだ。
実際に、台湾での今回の検疫制度と在宅隔離の公務執行は、かなり厳格だ。携帯電話の位置情報で隔離対象者の所在を把握し、隔離期間中に決められた場所を離れれば、100万台湾ドル(約360万円)の罰金を科せられる場合もある。政府が最近になって打ち出した新たな規則では、在宅隔離者が自宅を離れた場合には、強制的に隔離施設に送り、何の補償もしないというものだ。そのため、あまりにも強権的で基本的人権の侵害だという反対の声が出ている。
しかしネット調査によれば、各年代の多くの人が、依然として政府のやり方を支持している。その理由は、台湾の国家体制が中華民国憲法を母体としており、中央の権威が相当に強いことだ。過去の戒厳下の時期に、国家は戦時体制と同様の動乱平定動員条例を策定した。SARSが収束した後に、「中央感染症流行指揮センター実施弁法」を制定し、同センターのトップには大きな権力が付与された。陳時中部長もそのために、今回の感染症流行で重責を担うことになり、人気が突然にブレークしたわけだ。
さらに言うならば、台湾では実質的な独立に向かう方向と中国との統一に向かう方向への政治的な綱引きという背景があり、政治家が政策を遂行する前に様々なことを考えすぎて、場合によっては民衆の歓心を買うということすらある。人々が「気に入らない」と思って次の選挙で別の政党に投票すれば、政治家は政権を担当する機会を失ってしまうわけだ。
2018年の地方選では、各種政策を強行したことが民進党に対する不満の引き金となり、人々が民進党に反感を持ったことで、結果として国民党が圧勝した。国民党の韓国瑜高雄市市長は、スター政治家にまでなった。
民進党はこれを教訓にして、今回は民意に敏感に反応した。感染症が急激に拡大した時期に、大陸委員会は当初、中国に住む台湾人と中国人夫婦の子どもの来台を認めたのだが、一夜にしてネットでは大炎上が起こり、陳時中部長は指揮センターのトップの職権で、大陸委員会の許可を強権的に撤回した。また、台湾で隔離された英国人男女が扱いが悪いと強い不満を持ち、同件がBBCで報道された件では、大量の台湾のネット・ユーザーが英国側に抗議した。抗議発生の結果として外交部(台湾外務省)も介入し、最後に英国人女性に公式に謝罪させることになった。
こうした出来事は、台湾政府が民意を迅速に反映することを示している。ただ、台湾人には「熱くなりやすい」傾向があり、徐々にポピュリズムが進んでいることも示している。
「ポピュリズム化」を懸念する声はその通りではあるのだが、台湾は多くの変革を経験した後に、このような民意を汲んだ戦略を素早く実行し、台湾の特質である効率的な民主制を実証した。「効率的に民衆を管理し動かせるのは独裁体制だけである」という思いこみに対する反証を台湾の政治は示すことができたのだ。
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鄭仲嵐(ニッポンドットコム多言語部スタッフライター・編集者)1985年生。輔仁大学日文系卒。英ロンドン大学東洋アフリカ研究学院卒。在学中に日本に留学する。音楽鑑賞(ロック)と野球観戦が趣味。また、台湾のテレビ局での勤務経験あり。現在はBBCや聯合報などのメディアで記事を執筆。
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