――英国殖民地だった頃・・・香港での日々(香港105)

【知道中国 2223回】                       二一・四・仲四

――英国殖民地だった頃・・・香港での日々(香港105)

 

南斉とは、南北朝時代(439~589年)に都を建康(現在の南京)に置いた短期政権(23年間)である。北方(朔北)と南方(長江・黄河流域)が鋭く対立し、それぞれの有力勢力が覇権をめぐってグチャグチャに入り混じり群雄割拠した一種の疾風怒濤の時代である。

漢(前漢:前206~8年/後漢:25~220年)に象徴されるそれまでの中華帝国秩序が崩壊し、北方異民族を巻き込んだ文明のハイブリッド化と漢化が進み、プロレスのバトルロイヤルにも似た覇権争いの時代を経て、新たな中華帝国秩序に基づく隋・唐につながった。

精神文化的には北方の雄である北魏の拓跋氏を通じて浸透する仏教に対抗すべく、道教の体系化が試みられた時代でもある。

高校教科書のような雰囲気になってしまったが、『南齊書』の「出版説明」で注目したいのは「王命論を主に支えるのが仏教における因果応報説だ。仏教の道理が儒教と道教を超越しているとデッチあげている」との指摘だ。どうやら因果応報説を支える仏教は歴史唯物論とは相容れないし、「仏教の道理が儒教と道教を超越している」わけはないと主張したいのだろう。

『南齊書』の出版から11か月後の1972年12月に公表された儒家批判論文をキッカケに、後に批孔批林運動と呼ばれる四人組による周恩来批判運動が起こる一方、儒家を反動派・売国主義派と批判し、法家を革命派・愛国主義と讃える儒法闘争に発展していった。

いわば『南齊書』出版の段階では道教と共に「仏教の道理」なんぞに劣るわけがないと認められていた儒教が、1年ほどの後には完全に否定されてしまうのだ。

1年ほどの間に起こった中華伝統文化の大本たる儒教・儒家に対する評価の激変の背後に、やはり四人組の台頭などの政権をめぐる政治力学の変化が兆しているようにも思える。

『南齊書』出版から1か月後にニクソン訪中があり、その1か月後の1972年3月、隋に滅ぼされ、南朝最後の幕を引くことになる陳(557~589年)の歴史を綴った『陳書』が出版された。

『陳書』も「他の封建地主階級の史書と同じように、反動的な唯心主義歴史観に貫かれ、人民大衆の歴史うえの地位を抹殺し、地主階級の代表的人物の歴史上の働きを鼓吹している」と、内容的には『南齊書』の「出版説明」と大同小異である。そこで、正史をテコにして林彪の「天才論」を論駁しようとする意図が感じられないわけではない。

だが、出版へ向けての基本的な作業は文革が開始された1966年には完了し、1971年に再度訂正の後に出版に至ったと記されている点が気になる。

ここでフト、新亜研究所の先輩の言葉を思い出した。一連の歴史書を買い込んでいた頃、「中国では全ての印刷物は簡体字、横組みになっていると日本で教えられた。倉石武四郎・東大教授は、中国では将来的に漢字が廃されローマ字綴りになると力説している。事実、倉石教授の中国語教科書は全部がローマ字綴りで、漢字は見当たらない」と話すと、彼は「日本人は単純が過ぎる」と呆れ顔。

彼は「たしかに出版物は簡体字で横組みだ。だが、数千年前から共産党政権成立までの記録は全て繁体字で縦組みだ。簡体字しか知らなかったら、漢字で記された古代からの精神文化遺産は学べない。じつは共産党政権は極めて優秀な人文系の頭脳を選び、彼らを政治運動にはタッチさせず、ひたすら古典を学ばせていると聞いている。そうでなければ、こんな時代に二十四史なんぞを連続的に出版できるか。考えたら分かりそうなものだ。いいか何度でも言う。日本人は単純が過ぎる。動脳筋(あたまをはたらかせろ)!」と。

大陸の青壮年全体に銃を持たせるほどの工業力はないと教えてくれたのも、この先輩。「共産党=簡体字=伝統文化否定」との連想ゲーム的な“即断”は単純にすぎる。《QED》


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