――英国殖民地だった頃・・・香港での日々(香港78)
香港で活動する東華三院は、香港だけではなく世界中の華僑・華人社会における最大・最強の慈善団体と言っていいだろう。前身とされる広福義祠は、香港島がイギリスの殖民地になって10年ほどが過ぎた1851年に建てられ、頼るべき縁者のない老人や重篤な病に苦しむ者が死を待つために身を寄せるようになった。当時の香港人口は3万3千人ほど。
当然のように衛生・環境問題が発生する。そこで1872年、殖民地政庁が主導して中国人のための病院――「広東華人」に因んで「東華病院」と命名――が建設されたのである。
1931年に油麻地の広華医院の管理を引き受け、さらに香港島東部の東華東院を統一して管理するようになったことから東華三院と呼ぶようになった。
1999年末の時点で、香港各地に173か所の医療・教育・社会福祉などの慈善サービス拠点を持っていた。主たる経費は政府から提供されているが、民間からの寄付も少なくない。世界各地のチャイナタウンで活動する慈善団体ネットワークの頂点に位置づけられる。
1971年の半ばからだったと記憶するが、広華医院の近くに1年ほど下宿したことがある。
旺角の古本屋に近かったこともあり、広華医院の敷地を近道に利用したものだ。敷地の奥まった辺りに斎場があり、その横の裏門を出ると葬儀屋さんがズラッと並んでいた。正門から裏門へ、そして葬儀屋へ。生から死への動線の“合理的な配置”に感嘆するばかり。
時に見ず知らずの人の葬儀に参列させてもらったことも何回か。失礼とは思いながらも、興味が先に立ってしまうから致し方ない。かくて香港における葬儀の式次第、野辺の送り方、遺族の立ち居振る舞い、参列者の所作、斎場の設えなどを観察させてもらった。
東華三院は香港や海外で亡くなった人を故郷に葬る事業も行ったが、棺は東華三院が経営する東華義荘を経由し、「棺運びの船」で故郷に送られる。
なぜ、そうまでして故郷に戻ろうとするのか。中国人は「入土為安」、故郷の土となってこそ安堵できる。子孫も?栄するという故郷への思いが強い。かつて中国でも「運棺」「運柩」というビジネス――いわば棺の宅急便――が盛んに行われていたが、それだけ中国人が新たな生活の拠点を求めて故郷を離れ、未知の地に移動を繰り返していたのである。
東華義荘の記録を見ると、東華義荘に到着する棺はヨーロッパではノルウェー、イギリス、オランダ、フランス、アフリカでは東海岸のザンジバル、東南アジアではミャンマー(ヤンゴン)、タイ(バンコク)、マレーシア(クアラルンプール)、シンガポール、ヴェトナム(ハノイ、ハイフォン、ホーチミン)、インドネシア(ジャカルタ)、ボルネオ、中国(唐山、青島、天津、山東、浙江、上海、厦門)、東北アジアでは日本(長崎、神戸、横浜)、韓国(仁川)、南太平洋ではフィジー、サモア、タヒチ、大洋州ではオーストラリア(ケアンズ、タウンズヴィル、ロックハンプ、メリーバラ、ブリスベン、シドニー、メルボルン、ヴィクトリア、ロンセストン、タスマニア)、ニュージーランド(ウエリントン、オークランド)、アメリカ大陸ではカナダ(モントリオール、エドモントン、ヴァンクーヴァ―、ヴィクトリア、ニューウエストミンスター)、アメリカ(シアトル、ポートランド、サンフランシスコ、ホノルル、ニューイングランド、シカゴ、ボストン、ニューヨーク、ボルティモア、ピッツバーグ、フィラデルフィア、ニューオルリーンズ)、中南米ではメキシコ、グアテマラ、ベリーズ、コスタリカ、ペルー、キューバ、トリニダードトバゴなどで船積みされる。香港到着後、東華義荘に一定期間留め置かれ、やがて「棺運びの船」に積み替えられ広東省の沿海部のみならず内陸部、さらには海南島の地方都市に輸送された。
いわば香港が国際航路のターミナルとなったことで、東華義荘は世界各地に移り住んだ広東や海南島出身者の棺が故郷に戻る際の一時保管所の役割を果たしていた。東華義荘は運棺ネットワークのハブであり、「死者のホテル」でもあったわけだ。《QED》